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稲富博士のスコッチノート

第96章 ノーザン・ヴァイキング・ツアー-その2

図.オークニー本島と研修行程

オークニーに着いた翌日、カークウォールのホテルを朝7時半に出発した。午前中は地図上赤で示したルートに沿って、まず前章でご紹介したステネスとそのすぐ近くのブロッガー(Brodgar)のスタンディング・ストーンに立ち寄ってから、島の北端にあるスワネイ(Swannay)ビール醸造所へ、そこから地図上青のルートで折り返してビール醸造所の2ヶ所を、午後はスキャパとハイランド・パークのモルトの蒸溜所2か所を訪問した。

オークニー諸島は、大ブリテン島の最北、スコットランドのケイスネス(Caithness)地方の北東海岸から北へ16kmほどの沖合にあり、オークニー本島を中心として約70の島々から成っている。オークニー本島の面積は523km2というから日本の淡路島(592km2)より一割ほど狭い。現在の人口は約21,000人で、英国で最も小さな選挙区である。

オークニーに人が住み始めたのは約8500年前の旧石器時代。6500年前の新石器時代にはノース(Norse)といわれる古代ノルウエー人が住み、多くの遺跡を残した。その後、ピクト人が住んでいたが875年にはノルウエーに併合された。スコットランド北西部やアイルランド、さらに遠くヨーロッパを荒らし回り、交易も行ったヴァイキングは、8世紀から12世紀にかけてオークニーを基地としていた。スコットランド領になったのは1472年。当時ノルウエーとデンマーク両国を治めていた王はクリスチャン一世である。娘のデンマーク王女マーガレットがスコットランド王のジェームス三世に嫁ぐことになり、彼女に持たせる持参金が必要だったのだが金がなく、払うまでの担保としてオークニーを差し出したのだが、持参金は結局支払われなかったのでオークニーがスコットランド領になったという経緯がある。

オークニーには、ヴァイキングやそれ以前のノース人の遺物、建造物、歴史文書、地名等が色濃く残っているが、加えてヴァイキングは栽培種としては最も古い大麦品種といわれているベアー(Bere)をもたらしたし、自分達のDNAも残している。オルカディアン(Orcadian)と呼ばれる現在のオークニー住人のDNAの25%はノルウエー人の遺伝子由来であると報告されている。

今回の研修ツアーには、「ノーザン・ヴァイキング・ツアー」という洒落た名前が付いているが、これは何百年もヴァイキングが支配したオークニーを訪ねるという主意からである。本章はオークニー本島で訪問した2ヶ所のビール醸造所について記す。

スワネイ・ビール醸造所(Swannay Brewery)

このビール醸造所の名前は醸造所のある土地の名前だが、どう発音するのか現地で聞くのを忘れ、周りのスコットランド人に聞いても、多分ノース由来なのでよく知らないという。ここでは英語読みでスワネイと書いた。

写真1.スワネイ・ビール醸造所のゲート:醸造所はオークニー本島の北西、バーゼー(Barsay)地方にある元酪農工場跡を転用した。周りは広大な農地だけで、我々の感覚では「えっ、こんな所でビールを作るの?」という感じである。

スワネイ・ビール醸造所の創業者はRob Hill氏である。ビールつくり25年のベテラン・ヘッド・ブリュワーだったがある日突然失職、それなら自分で自分が理想とするビール造りをやろうと始めた。2004年のことである。資金がないので、小さな中古の醸造設備を購入して2006年からビールをつくり始めたが、当時は一週間に500リッターの仕込みを4回やるのが限度だった。設備の洗浄、仕込み、発酵、樽詰めから配達、顧客の開拓から資金回収まで、一人でやらなければならずこれが限度だった。資金繰りも苦しく、始めの3年程は年収が100万円少々しかなかったという。

写真2.スワネイ・ビール醸造所の仕込み設備:典型的な2槽式のエールの仕込み装置で、右が仕込み槽、階段の向こう側が煮沸釜である。仕込み槽に架かっているグリーンのスコップは、仕込みが終わった後に槽内の糖化粕を人力で掻き出すためのものである。

造っているビールはエール(Ale)と呼ばれるタイプのビールで、人類が3千年も造り続けてきたものである。我々に馴染みの深いラガーが誕生したのは16世紀で、たかだか500年の歴史である。エールとラガーはその製法に何点か違いがあるが、その中で最も特徴的な相違は、使用するイーストである。基本的にエールは学名をサッカロマイセス・セルヴィシアエ(Saccharomyces cerevisiae)という上面醗酵酵母を、ラガーではサッカロマイセス・パストリアヌス(Saccharomyces pastrianus)という下面醗酵酵母を使って醗酵させる。

話が少し脱線する。ラガー・ビールは、500年ほど前に南ドイツ、ババリアの僧院でエールを造っていた時に、偶然ラガー・イーストが紛れ込んでラガーになったというが、ではそのラガー・イーストは何処から来たかは長年の謎であった。ごく最近、アルゼンチン、アメリカ、ポルトガルの国際研究チームの遺伝子解析によると、ラガー・イーストは、エール・イースト(サッカロマイセス・セルヴィシアエ)と、南米パタゴニアのぶなの木の瘤だけに住んでいるサッカロマイセス・ユーバヤナス(Saccharomyces eubayanas)の雑種であることがほぼ確実に判明したという。世の中、奇異なことがあるものである。500年前の大航海時代に何かにまぎれてヨーロッパへやってきてババリアの山奥の僧院にたどり着き、たまたま出会ったエール酵母と融合してラガー酵母が生まれた。これがなければ、現在世界のビールの94%を占め、産業規模で30兆円といわれるラガー・ビールは無いことになるが、奇想天外とは正にこのことであろう。

話をエールに戻す。エールは一般的には上面酵母で発酵させたビールを指し、大型工場では、主発酵、2次発酵とも近代的なタンクによって行われ、その後濾過、殺菌されてケッグ(樽)か瓶に詰めされて出荷される。これに対して本格エール(Real ale*といわれる)は伝統的な製法を守り、主醗酵がほぼ終了すると現在はアルミやステンレス製が多いが伝統的には木樽に詰め2次醗酵させて調熟する。この時アイジングラス(Isinglass,魚の浮き袋から取ったゼリー)を加えて酵母や滓を凝固させて清澄化する。本格エールでは以後の濾過、殺菌や炭酸ガスの注入を行わずそのままパブに出荷する。パブではまだ2次醗酵が続いている樽を地下のセラーに入れ、上階のパブでは手動ポンプでエールを吸い上げてサーブする。エールが生温く、炭酸ガスのピリッとした刺激に乏しいのはこれらの理由による。

写真3.ウイスキー樽によるエールの調熟:樽の鏡にはウイスキーを詰めた時に記入した「アラン島蒸溜所株式会社、2004年、シングルモルト、ベアー、樽番号」がそのまま残されている。

スワネイ・ビール醸造所で珍しい樽によるエールの調熟をみた。樽のエールのタイプは、色はダークでホップが効き、アルコール度数が高く味の濃厚なポーター(Porter)で、熟成にはよく木樽が使われる。ポーターという名前の由来は、18世紀に重労働である運搬の仕事に従事していたポーターに人気があったことに因る。このスワネイ のBA (Barrel aged) Porterは、グラスゴー西方のアラン島にあるモルト蒸溜所でウイイキーの熟成に使ったバーボンの空き樽を使い、アルコール度数は10.5%で1年以上も樽熟成させる。アラン蒸溜所でウイスキーを蒸溜した時に使用した麦芽は、ヴァイキングが8世紀にオークニーにもたらしたオークニー産のベアーの麦芽だというから念が入っている。生産量に限りがあるニッチな商品だが、ビール世界の広がりを改めて見せてくれた。

2004年にHill氏が創業し、飲まず食わずで頑張ったスワネイ・ビールの評価は高い。過去10年間に国内外で100以上のメダルを獲得、最も多くの賞を獲得したビールといわれ、輸出も着実に増えている。最果てのオークニー、その片田舎の閉鎖された古い乳工場で中古の醸造設備で作られたビールが高い評価を受けるのを見ると、物つくりの核心はディジタルな資金力、設備や技術などの要素ではなく、作り手の情熱や経験によるスキルという極めて人間的なアナログにあるように思える。

オークニー・ビール醸造所(Orkney Brewery)

創業は1988年でオークニーではこちらの醸造所の方が、スワネイより大分先輩格である。創業者のロジャー・ホワイト(Roger White)氏が新石器時代の住居跡として名高いスカラ・ブレイのすぐ近くの小学校跡に小さなビール醸造所を作ったのが始まりである。2004年にアトラス・ビール醸造所(Atlas Brewery)に買収され、ハイランズ・アンド・アイランズ・ブリューワリーとなったが経営に行き詰まり、現在の親会社のシンクレアー・ブリューイング(Sinclair Brewing Company)の傘下に入り現在に至っている。

写真4.オークニー・ビール醸造所:1878年に建てられた小学校跡を醸造所に転用した。ビール製造だけでなく、立派なビジター・センター、レストラン、売店、セミナールームを備えていて、見学者には大人も子供も楽しみながらいろいろ学んでもらう学習センターのようなコンセプトで、流石に元学校である。学校の歴史資産も温存している。

スワネイに比べると、オークニー・ビール醸造所は歴史も長く規模も大きいだけにビールつくりだけでなく、見学、セミナー、レストラン、ショップ、イベント会場などの多角化経営を行っているが、何れもオークニーの自然、歴史や産物等の郷土色を盛り込んだ内容になっている。

醸造所のツアーに移る。我々研修チームがオークニー・ビール醸造所に到着したのは午前10時半頃。スワネイでもそうだったが、到着するなり‘まあ一杯やってくれ’とビールが振舞われる。いくつかの製品から好みのタイプのエールやビールを選び、飲みながら説明を聞き行程を回る。お代わりもOKで、この辺りはずいぶん鷹揚である。研修チームは、ビールやウイスキーが専門の研究者や技術者なので、普段は一般見学者には解放されていない場所にも案内されるが、ビールのグラスを持って急な階段の上り下りをするのはいささか難儀だった。

写真5.原料倉庫での説明風景:後ろの壁面に「MALT STORE」とあるように原料麦芽の貯蔵庫で、使用する種々の麦芽についての説明を聞いているところ。皆が持っているグラスのビールの色からも分かるように、ビール、特にエールは、主として麦芽の乾燥行程の温度コントロールの違いで生じる淡色からダークまで色々な麦芽を使用する。

オークニー・ビール醸造所の仕込み方法は、スワネイと同じくマッシュ・タン(仕込槽)とケトル(煮沸釜)だけの簡単な2槽式である。仕込槽は、濾板と側板に粕出し用のホールがあるだけで攪拌装置もない簡単なものである。まず、1トンの粉砕麦芽を温水と混ぜてから1時間ほど静置して糖化が進み、底に麦粕の層が形成されてから濾過を開始する。攪拌装置がないのでゆっくりした濾過しかできないが、極めて澄んだ麦汁が得られる。濾過が進んで液面が麦層に近くなると、次の温水をスプレーして2番麦汁をとる。濾過は終了まで1.5〜2時間を要する。濾過されてきた麦汁はケトルへ送られ、ホップを加えて煮沸してから冷却し醗酵槽へ送られる。

写真6.粕出し作業:濾過を終えると、側面の粕出し口を開け、作業員が仕込み槽の中へ入って人力で粕を排出する。麦層の温度は80℃以上あると思われるが防熱用のブーツを履き、15分くらいで終了するが、暑い仕事である。

エールの醗酵には上面醗酵タイプの酵母を使うが、前出のようにこの酵母は醗酵中に液の上面に浮き上がって層をつくる特性があり、攪拌して醗酵中の麦汁に沈めないと醗酵が停止し酵母も栄養不足で死滅するものが増える。そこで行われるのがラウジング(Rousing=攪拌する、元気づけるの意味)という作業で、これは醗酵タンクの下の方からポンプで液を抜き取り、液面の酵母層にスプレイして酵母に酸素を与えて活性化し、それを液中に戻す作業である。

醗酵が順調に進み、エールの比重が所定の値にまで下がると醗酵終了である。この時点で液面に形成されている酵母層を集めて酵母タンクに貯蔵し次の醗酵に再使用する。他の微生物の汚染がなく、酵母が健全であれば数ヶ月も使用を続けることができる。

写真7.エールの醗酵中のラウジング:醗酵中のエールの表面には上面醗酵酵母が浮かべ上がり、厚い層を形成する。写真は、タンクの底から醗酵中のビールをポンプで吸出して酵母層にスプレイして液中に戻す作業を行っているところである。

今回は、オークニーの小規模なエールの醸造所を紹介した。このような小規模のビール工場はよくクラフト・ブリューワリーといわれ、英国でも急増している。クラフト・ブリューワリーの厳密な定義はないが、小規模、独立した経営、伝統的な製法、自動化でなく手作業が主な要因となっているので小回りが利く。これらが、地域特性を生かした多品種・少量生産をやり易くしていると思われる。CAMRA(Campaign for Real Ale:1971年に始まった消費者運動)の2017年版のGood Beer Guildによると、現在英国あるビール醸造所の数は1540、今世紀に入ってから3倍に増えたそうである。この増加は全部がクラフト・ブリューワリーの増加によるといってよく、いまや英国は1ビール工場当たりの人口が最も少ない国だそうである。クラフト・ビールは‘クール’で若者に非常に受けているが、消費者は移り気だし、淘汰もあるだろう。今後に注目である。

参考資料
1. Ritchie, Anna. Viking Scotland, B. T. Batsford Ltd/Historic Scotland, 2001
2. Protz, Roger (Ed.). CAMRA’s Good Beer Guide 2017, Campain for Real Ale Ltd, 2016/2017
3. http://www.swannaybrewery.com/home
4. http://www.germanbeerinstitute.com/history.html
5. https://www.sciencedaily.com/releases/2011/08/110822151019.htm
6. https://www.eebria.com/products/beer/swannay-brewery/2160-ba-orkney-porter?r=SLC30194491&gclid=CMPUleqIztECFckaGwodDFAIZw
7. http://www.orkneybrewery.co.uk/
8. https://en.wikipedia.org/wiki/Sinclair_Breweries
9. http://www.visitorkney.com/listings/culture/the-orkney-brewery-visitor-centre-tasting-hall
10. http://www.camra.org.uk/about-real-ale
11. http://www.camra.org.uk/what-is-camra

*Real Aleの定義:麦芽、ホップ、水、イーストだけを原料にして醸造し、2次発酵によって熟成させ、熟成に用いた容器から外生の炭酸ガスを用いずに直接サーブされるビール(CAMRAによる定義)