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稲富博士のスコッチノート

第75章 ドゥーンとディーンストン蒸溜所

グラスゴーから北へ車で40分くらい、スターリングの北西十数kmの所にドゥーン(Doune)という人口1600人ほどの小さな町がある。町というよりは村といった感じの小さい場所だが、歴史遺産と物語に富んだ魅力的な町である。

ドゥーン・ピストル

1.ドゥーンのピストル工場跡:ドゥーンの表通りから細い路地を入ったところにある。工場というより工房の感じである。残念ながらピストルは 残っていないという。エジンバラのNational Museum of Scotlandには展示がある。

17世紀、ドゥーンの村は西ハイランドからスターリングやそれ以遠のローランドの市場で売る為、牛を追ってくるドローバー(Drover)達で賑わった。そのハイランダー達に人気があったのが、ドゥーンで作られたピストルである。スコットランドにおける火器の製造は、ヨーロッパからきた鉄砲鍛治が行っていて、そこそこの水準であったが、17世紀半ばからこの町でピストル製造を始めたフランダース人のトーマス・キャデル(Thomas Caddell)が独自の製法を開発してから、性能とデザインで優れたものとなり、その名声は海外にも聞こえるようになった。1775年4月19日、アメリカのマサチューセッツ州レキシントンで、日昇り時に発射されたドゥーン・ピストルの 一発でアメリカ独立戦争の幕が開いたという。

17-18世紀の盛時にはいくつかの工房があり、町には今でも「ピストル・メーカー通り」(Pistol Makers Row)の地名は残るが、そこは新興住宅地になっていて往事をしのばせるものはない。ドゥーンのピストル産業は18世紀で終焉した。バーミンガムなどで量産されたコピー商品に負けたといわれている。ドゥーン・ピストルの残存数は全世界で200丁と少なく、オークションに出ればすごい価格がつくという。

ドゥーン城

2.ドゥーン城(Doune Castle)

ドゥーンといえばまずはこのお城である。中世の城としてその原型をもっともよく残しているといわれ、歴史に主題をとった小説(ウォルター・スコットのウェヴァレー)の舞台となり、映画(アイヴァンホー、MGM 1952)やTV(モンティー・パイソン)のロケーションに使われた。

この地に最初に城ができたのは13世紀と言われているが、現在の姿に築いたのはロバート・スチュワート(オルバニー公爵、1340-1420年)で、14世紀の終わり近くである。ロバート・スチュワートの父親はスコットランド王のロバート二世、曾祖父がスコットランド建国の父であるロバート・ザ・ブルースである。ロバート二世の後は、ロバート・スチュアートの兄のロバート三世が継いだが、事故の傷害で虚弱であったので、ロバート・スチュアートが摂政として国政を仕切った。強引な性格のロバートは“王でないのは名前だけ”と言われるほどの権勢を誇った。

中世の政治は不安定且つ残忍である。どの王侯も所領と自家の拡大を図り、血腥い葛藤を繰り広げた。ロバート三世の次のスコットランド王は当然長男のデーヴィッドのはずだが、デーヴィッドはオルバニー公に捉えれて獄死、8歳の弟のジェームスはフランスへ逃れる途中にイングランドに囚われ、18年間をロンドン塔で過ごした。オルバニー公が身代金を払わなかった為だが、ジェームスは良い教育を受けたという。オルバニー公の死後スコットランドへ戻ったジェームスはスコットランド王ジェームス一世として即位、復讐としてオルバニー公の一家を処刑した。しかしながら、ジェームス一世本人も後に王位継承権をめぐる陰謀から異母弟のウォルター・アソール卿(Walter Lord of Athol)の支持者に暗殺された。

ドゥーン城が良く原型を留めているのは、オルバニー一族が消滅した後は誰も手を入れなかった為といわれている。夏の好天下のドゥーン城は写真のように美しいが、陰鬱な夜間や暗い冬には政治的な権謀術数で殺された死者の亡霊が徘徊してさぞ妖気迫る気配ではないかと想像する。

ディーストン蒸溜所―紡績工場時代
紡績工場の始まり

3.ディーンストン蒸溜所:ティース川の川沿いにある。ティース川の豊かな水量を生かしてこの地に紡績工場が建てられたのは18世紀後半。正面の5階建ての 建物は紡織工場だったが、現在はウイスキーの貯蔵庫として使われている

ドゥーンの町から数分、ティース(Teith)川の河畔に堂々とした建物が建っている。スコットランドの重要な産業遺産として指定されているこの建造物は、ハイランドやアイラの蒸溜所を見慣れている目にはモルト・ウイスキーの蒸溜所には見えないが、ここがディーンストン蒸溜所である。蒸溜所に見えないのは、もとは紡績工場であったところをモルト・ウイスキーの蒸溜所に改造したことによる。

スコットランドで紡績が盛んになったのは18世紀後半である。それ以前の人力による作業に代わって導入されたのが水力を利用した紡績で、ディーンストンにも水車を動力とした工場が建てられた。19世紀の初めにグラスゴーの大手マーチャント、ジェームズ・フィンレイ(James Finlay & Co.)が参入してから綿紡績の工場として大きな発展をとげた。最盛期には4基の水車があり、その一つはヨーロッパ最大と言われ300馬力の出力があった。蒸溜所の前を過ぎて川の上流方面へすこし行くと、上流の堰から水を引いてくる導水路が見られる。

ディーンストン・ヴィレッジ

4.ディーンストン・ヴィレッジ:1810年頃から、会社が紡績工場の従業員の為に建設した。歴史資産と建築デザインの価値から、多くの建物が保存指定を受けている

盛時にディーンストン紡績工場は1500人以上の作業員を雇用していた。会社は工場のすぐ近くに作業員が居住する村を建設した。家庭の主婦でも働ける女性や、子供も5歳から学校で読み書きと簡単な計算を習い、9歳になると工場で働いたので、職住近接は会社にとっても従業員にとっても必要条件であった。村には住居だけでなく、学校、商店、郵便局などのアメニティーがあった。ディーンストン蒸溜所のすぐ裏には今でも当時の‘Deanston Village’そのまま残っている。※1

ディーンストン紡績工場がその最盛期頃と思われる1923年に撮影されたフィルムが残されている。参考資料6の動画を見ていただきたいのだが、大水車が回っているところや、多くの学童が学校から出てくるところ、労働者が工場からでてくるところ、マネジャーと思しき人物が何人かの労働者と会話しているシーンなどが記録されている。フィルムの開始から4:55に荷馬車が工場ゲートから出てくるシーンが始まるが、背景の地面にウイスキーの樽らしいもの10丁ほど置かれているのが見える。これが何であったか興味はあるが確認は出来ていない。

ディーンストンの紡績は19世紀半ばから衰退の時期に入った。それでもその後100年以上何とか持ち堪えたが、1965年に閉鎖の止む無きに至り、180年の歴史に幕を降ろした。

※1スコットランドの紡績工場で、このようなコミュニティーがあった最も有名なところは世界遺産にも登録されているNew Lanarkである。

ディーンストン蒸溜所―紡績工場から蒸溜所へ

5.水力発電機:1949年にそれまでこの場所にあった水車に代えて導入した。もう一台の発電機と合わせて蒸溜所が必要とする以上の発電能力がある。

紡績工場閉鎖後のディーンストンを蒸溜所に改装することは、工場のオーナーだったJames Finlay&Co.とグラスゴーのブレンディング会社のBrodie Hepburnが進め、蒸溜所は1966年にオープンした。1960年代から70年代は、スコッチ・ウイスキーが毎年2桁の伸びをみせていた時代で、蒸溜所への改装は妥当な判断だった。しかしながら、80年代に入るとスコッチは大不況時代に突入、多くの蒸溜所が閉鎖された。ディーンストンも1982年から8年間休止を止む無くされた。

ディーンストン蒸溜所は現在も1960年代の蒸溜所そのままで、設備に大きな変更はされていない。製造能力約3,000KL の中規模蒸溜所ながら、現在の多くの蒸溜所が採用しているコンピューターによる制御はない。作業員の経験とスキルで操作している。

一つ、この蒸溜所には他の蒸溜所が真似できない利点がある。紡績工場時代に動力を供給した水車は1949年に発電機を駆動する水力タービンに変更され、現在でも蒸溜所が必要とする以上の電力を生み出している。余剰の電力は電力会社に売っているというから、こと電力に関する限りこれ以上の環境問題への対応はないと言える。

仕込工程

6.仕込槽:仕込槽のボディーは鋳鉄製、濾板は砲金製、攪拌機は熊手型のレーキ、オープン・トップでカバーはない。1960年代の標準仕様である。

一仕込みの麦芽量は10.5トンでこれから60KLの麦汁が得られる。仕込みのサイクル・タイムは11時間というから非常にゆっくりした作業である。この原因は、仕込量が多く麦層が深いこと、砲金製の濾盤は現在の主流のステンレス製の濾板に比べて液が流れる開口部が約半分くらいしかないこと、ラウター型の仕込槽のように濾過中に攪拌機を連続して回転させ、麦層を水平に切って液の通りを良くするという事が出来ない、という理由による。一般的には、このタイプの仕込槽でゆっくりした濾過を行うと非常に澄んだ麦汁が得られる。

醗酵

容量60KLの醗酵槽は全部で8基あり、材質はコーテン鋼(銅を含む鉄の合金で、通常の鉄より防錆力に優れる)に樹脂をコーティングしたもの。1950-60年代に良く使われた。酵母はケリー社のディスティラー・イーストで、80-100時間の長時間醗酵を行い、醗酵終了時のアルコール度数は7-8%である。

蒸溜

7.蒸溜室:大型のポット・スティル4基が並び量感がある。左側の天井から下がっている時計は旧紡績工場時代のものだが、まだ正確に時刻を刻む。悩みは、時計がぜんまい式なので頻繁にねじを巻かなければならないことだという

蒸溜のポット・スティルは、容量15KL(張込み量)の初溜釜が2基で、加熱は蒸気のケトル、サイクル・タイムは5時間。13KL(張込み量)の再溜釜が2基で、こちらは蒸気の蛇管で加熱する。再溜のサイクル・タイムは7時間で、ウイスキーになる本溜部分のアルコール度数は69.5%。標準的なオペレーションである。

貯蔵熟成

8.「天使の分け前」撮影記念の樽:監督のケン・ローチ、主演のポール・ブラニガン、社会奉仕指導員のジョン・ヘンショウ、主人公の恋人役を演じたシボーン・ライリーなどのサインが読める。ケン・ローチは、Ken Loach and the Angelsとサイン。

貯蔵熟成用の樽の主力はバーボン樽だが、ホックスヘッドやシェリー樽も使用する。貯蔵庫は、元の紡織工程があった建物である。

その貯蔵庫に記念すべき樽が置かれていた。昨年封切られた映画で、スコッチ・ウイスキーに題材をとった「天使の分け前」(原名Angel´s Share)がある。そのロケがこのディーンストン蒸溜所で行われた時に出演スタッフがサインした記念樽である。

映画のプロットは:グラスゴーの下層階級の出で、まともな職に就けずトラブルばかり犯しているグレた青年が、起こした事件の裁判で服役の代わりに社会奉仕を命じられる。社会奉仕の指導者からウイスキーのことを教えられてウイスキーに興味を持ち、それをきっかけに人生を立て直して行くというストーリーである。大勝負の場面は、最も希少で、一樽一億数千万円以上といわれるモルト・ウイスキー樽のオークションに仲間と一緒に紛れ込み、オークションが跳ねてから、その樽のウイスキーをアィアン・ブリュウ(Irn Bru)※2の大瓶4本に失敬、金持ちのウイスキー愛好家に売って出直し生活の資金にするくだりである。笑いと涙の交錯するヒューマン・タッチのコメディーではあるが、根にグラスゴーの貧困問題があり、社会派のケン・ローチ監督ならではの作品であった。

ドゥーンは小さな町であったが、歴史と逸話に富み、Hidden Gem(隠れた宝石)のような町であった。

※2Irn Bru:スコットランドのコカコーラといわれる。

参考資料
1.http://en.wikipedia.org/wiki/Doune
2.http://doune.co/index.php/heritage/doune-pistols
3.http://en.wikipedia.org/wiki/Lexington,_Massachusetts
4.http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Stewart,_Duke_of_Albany
5.http://www.finlays.net/about-finlays/history
6.http://ssa.nls.uk/film.cfm?fid=7184
7.http://en.wikipedia.org/wiki/New_Lanark
8.http://www.burnstewartdistillers.com/pages/burn-stewart-distillers-deanston
9.http://whiskymag.jp/angelsshare/
10.http://en.wikipedia.org/wiki/Irn-Bru