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稲富博士のスコッチノート

第19章 グラスゴーのパブ

スコッチ・ウイスキーからやや外れるが、今回は在住しているグラスゴーのパブについて書く。少し気軽にというつもりだったが、資料を見出すとこれが大いなる誤算であることにすぐ気がついた。なにしろパブといえば英国、英国といえばパブで、パブの存在なしに英国は成り立たない。その根の深さと広がりは社会、歴史、文化、産業、経済等に及んでおり、パブの研究をすれば、本が何冊を書けるほどである。こういった訳で、体系的な話からは程遠いが‘民衆の町グラスゴー'のパブに付いてすこしご紹介する次第です。(*本編ではパブとバーをほぼ同義に使っているが、バーの方が広い概念でパブはバーの一種である)

1. パブの起源

パブ(Pub)はパブリック・ハウス(Public House)の略であり、だれにでも公開された場所を意味する。グラスゴーのパブの起源は1700年頃で、グラスゴーがアメリカをはじめとする海外との交易で発展し始めた時である。当時スコットランドのハイランドや南部地方、アイルランドでは凶作、地主による厳しい取り立てや、挙句の果てに‘羊のほうが人間より有益'として小作農の追い出しがあり、食えなくなった人がグラスゴーに殺到した。パブの起源はこれらの人を相手にしたタバーン(Tavern)といわれる酒類販売免許をもった居酒屋で、多くが旅篭屋も兼ねていた。シェビーン(Shebeen)といわれる闇酒場もいたるところに存在した。

急増する人々が住んだのがテナメント・ハウス(Tenement)といわれる環境劣悪の賃貸アパートで、特にこれらが集中したグラスゴー東部は不潔、疾病、犯罪などの温床であった。狭い自宅に人は呼べない。人と会うのは居酒屋であった。これらの安居酒屋では多種の酒を提供した。エールといわれるホップなしのビール、ラム、当時いたるところで密造されていたウイスキーもおおいに飲まれた。味はともかく、真っ当につくられたものは良いが、メチル、松脂、ニス、ジャガイモアルコール、硫酸、リンゴ酒等よくもこんなものが入っていると感心する偽ウイスキーも横行していた。

2.一番古いパブ

‘我こそがグラスゴーで最も古い'と称するパブが少なくとも数軒はある。これは‘最も古い'という事が上手く定義できないことによる。同じ場所、同じ建物、同じ屋号で続いていれば文句ないのだが、この厳密な意味で最も古いものは19世紀後半創設で、100年余の歴史である。多くの古いと称するパブは、当時その場所かすぐ近くで免許を取得したタバーンがありその年を創設年としているようだが、途中で営業を中断していた、建物が建替えられた、名前が変更されたものがほとんどである。論議は尽きないが、あまり硬いことは言はずに2軒紹介する。

Old College Bar

Old College Bar:ペンキの剥がれた外壁に築1515頃とある。 パブサインの1810年は免許をうけた時である。

グラスゴーの町は今の中心街からずっと東側、大聖堂から南に続くハイストリートに沿って発展した。このバーはハイストリート沿いにあり、同じく1870年までハイストリートにあったグラスゴー大学の跡地の筋向いにある。カレッジ・バーの名前は大学に因んでいる。この地域はグラスゴーで最も貧しく、狭隘な賃貸アパートが密集、路地にはもぐり酒場と売春宿が蜂の巣のように巣食っており、貧困、ひどい衛生状態、治安の悪さで最悪のスラムであった。グラスゴー大学が現在の場所に移転した理由の一つは、‘この環境は将来を担うYoung Gentlemanの教育にはふさわしくない'だったという。現在のパブの内部は古さを感じさせるものは余り無い。小さなラウンジ・バーでローカルの集会所であった。

The Scotia

The Scotia:低い天井の内部は近親感をもたせ、壁の展示物はグラスゴー民衆の歴史を語る。ジャズやフォークのセッションも頻繁に開かれている。

Scotia(スコシアはスコットランドの詩的表現)は伝説的パブで、1792年に営業を始めたタバーンが起源とある。場所のストックウェル・ストリートはクライド河に最初に架けられたビクトリア橋に近く、よい酒を出すバーとして船員やクライド河畔の造船所に働く人々の人気を集めた。バーはその後2回の閉鎖を含んで幾多の変遷をたどっているが、1960年頃から重工業の衰退、失業の増大を背景に急進的な社会主義者が集まるようになる。酒の上で夜毎交わされる革命論議は極めて熱いものだったに違いなく、バーは‘社会主義バー'であった。クライド河畔がRed Clyde-side(赤のクライド河畔)と言われていた時代である。今も残る店内の展示物には強烈な反体制メッセージのものが多い。その頃のフォーク音楽ブームで、客は楽器を持ち寄ってフォークを歌った。酒、社会主義、フォークミュージックというカクテルはどんなテーストだっただろうか。

3.ビクトリア時代のパブ

1837年から1901年までのビクトリア時代は大英帝国だけでなくグラスゴーの全盛時代であり、工業都市、商業都市として帝国第2の都市として繁栄した。パブも労働者パブだけでなく、都心には町で働く人向けのパブが多く誕生した。

The Horse Shoe

The Horse Shoe:都心の名パブで、保存指定建造物のなかにある。昔から安くて旨い昼食が有名で、今も3コースの食事が650円で食べられる。

中心街にある超人気著名パブである。1884年に長年義勇騎兵団の団員だった創業者が好きな馬に因んで命名した。それ以来途切れることなく続いていて、ヨーロッパで最も長続きしているバーと言われている。ビクトリア時代特有の高い天井、中央の大きな島のバーカウンター、壁に架けられた絵,写真、ポスターもその時代の雰囲気をそのまま残している。Glasgow Rangersのファン(Supporter)が集まるところで、Rangersの試合のある日は立錐の余地もない超満員になる。

Tennent's

Tennent's:入り口からバー・カウンターまで広いフロア-があり、壁際はテーブル席になっている。‘グラスゴーで最良のAle House'と銘していて、各地で醸造されるReal Ale(木樽で調熟した上面醗酵のエール)12種が飲める。エールのアルコール度数は3.8-6.7と巾があり、値段もそれに応じて異なる。

このバーのあるバイヤーズ通はグラスゴー大学のすぐ西側の繁華街である。バイヤー(Byre)というのは牛小屋で、むかし西スコットランド方面から牛追い達がグラスゴーで売るために牛を追って来てここで最後の休憩を取ったことからこの名前がついた。1884年に以前からあったバーをグラスゴーのビール会社 Tennent社が買い取った。内部に仕切りがないオープン・バーで、アイランド型のバーカウンターがある典型的なビクトリア・スタイルである。ここは 1971年まで頑なに‘Men only'を守ってきたが、時代の流れに抗しきれずその年にやっと女性客を受け入れた。解禁の当日‘我勝てリ'と書いたプラカードを持った女性が多数押しかけた。‘Tennent's襲撃事件'と言われる。客層は大学教授から労働者まで幅広い。ここも繁盛バーで1日の来客数2-300人という。

4.ウイスキー・バー

ウイスキー・バーという定義はない。ウイスキーが多くおいてあるパブという意味である。グラスゴーでは19世紀中頃に、ウイスキーやスピリッツを専門に飲ませるバーが多くあり、Teacher's Whiskyの創業者ウイリアム・ティーチャーもこのような店Dram Shopを経営していた。ドラム(Dram)はスコットランドで‘ちょっとした一杯'を意味する。

Uisge Beatha

Uisge Beatha:名前のとおりウイスキーの品揃えは多い。内部はラウンジ、バー、レストランなどに分かれていて、ハギスなどのスコットランド料理が出される。

グラスゴー大学のすこし東にあるビクトリア時代の博物パブを模したパブで、動物の剥製、絵画、彫刻、その他種々の置物がある。Uisge Beatha(イシュカ・ヴァー)はウイスキーの語源となったゲール語で、‘命(ヴァー)の水(イシュカ)'である。ウイスキーの品揃えはさすがで200本以上である。

LIOS MOR

LIOS MOR:名前のリスモアは、創業者がスコットランド西海岸の町 Oban沖にあるLismore島出身だったことに因む。外壁にWhisky Barとあり、ボーモア社のオーヘントッシャン・シングルモルトが、‘3回蒸溜、グラスゴーのウイスキー’と画かれている。

ラスゴーからバランタイン社のあるバートンへ行く旧道のダンバートン通にあるこじんまりしたバー。インテリアはハイランドをテーマにしていて、ウイスキー蒸溜や樽造り、ハイランドの生活の様子がステンド・グラスに表現されている。ウイスキーは100種以上、‘今月のお勧めシングル・モルト'としてミルトンダフのシングル・モルトを1杯(35ml)1.5ポンド(約300円)で提供していたので早速注文した。オレンジ・ママレードを思わせるフルーティー、キャラメルの甘さとクリーミーさがあり、味はしっかりと美味,すっきりした後味であった。後で気がついたがバーの隅に‘白州12年'のボトルが置かれていた。

グラスゴーには多様なキャラクターをもったバーがまだまだある。ファッショナブルなパブ、ラウンジーバー、スーパー・パブといわれる超大型パブなどである。サービス内容や料金、パブ業界の現状なども次回以降に紹介してゆきたい。