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稲富博士のスコッチノート

第18章 パースとウイスキー

テイ河とパースの町:テイ河は、ハイランド中央高地に発し北海に開けるテイ湾の奥に至る。その右岸に広がるパースの町は、古くからハイランドとローランドをつなぐGateway(通路)として、又ヨーロッパとの交易上も重要であった。

エジンバラ、グラスゴーに引き続いて、3大ウイスキー都市物語の最後は「パース(Perth)とウイスキー」です。 パースはエジンバラやグラスゴーから北へ列車で約一時間のところ、スコットランドで最も長い河のテイ河(Tay)がテイ湾に注ぐ河口からすこし上流の右岸にある。「The Fair City」(美しい都市)と呼ばれる人口4万人余の瀟洒な小都市である。

1. パースの歴史

運命の石

スクーン(Scone)のチャペル:この小さなチャペルが建っている丘(Moot Hill)は歴代スコットランド王が即位した聖地である。手前に“運命の石(Stone of Destiny)"が見える。現在置かれているのはレプリカで、1996年にロンドンから返還された本物はエジンバラ城に展示されている。

パースはスコットランドの歴史、特に王家と宗教に深く係って来た。古くはピクト人の中心都市であったが、スコットランド王朝と深い係りをもつようになったのは9世紀で、初代スコットランド王のケネスが、現在ではパースの一部になっているスクーン(Scone。スクーンと発音する)に“運命の石" (Stone of Destiny) を移して首都としてからである。“運命の石"は、スコットランドの王権に正当性をあたえるものとして13世紀まで歴代新王はパースでこの石に座して即位した。“運命の石"は1296年にイングランドのエドワードI世によってロンドンのウエストミンスター寺院へ持ち去られる。以後スコットランド王は“運命の石"に座っての即位は出来なくなったが、スクーンは1651年のチャールスII世まで新王が即位する地でありつづけた。因みに、この“運命の石"がスコットランドへ返還されたのは1996年11月30日、スコットランドの建国記念日ともいうべき聖アンドリュース・デーで、実に700年後のことであった。(第9章“スコットランド国家の成立"参照)

暗い過去

ハンティング・タワー:パースの町外れにある。15世紀にリーベンによって建てられたこの古城にジェームスVI世は10ヶ月も幽閉された。“リーベンの襲撃(Ruthven Raid)"と言われる大事件であった。

“運命の石"にとどまらず、パースの歴史は騒乱と血なまぐささにも事欠かない。1437年にスコットランド王ジェームスI世は、王室内のゴタゴタと彼の強欲で強権的な統治への反感から、居所としていたブラック・フライアー修道院で暗殺される。1582年には宗教上の反目から、当時15才のスコットランド王ジェームスVI世が、地元豪族のリーヴェン伯(Ruthven。発音はRiven)にパース郊外のハンティングタワーに幽閉された。10ヶ月後に脱出した王は復讐にでる。リーヴェンを処刑、後継の伯爵とその弟も謀殺され、爵位は廃止、領地は没収、リーヴェンの名前も禁止された。王の幽閉された城は以前はリ-ヴェン城と呼ばれていたが、以後ハンティング・タワーと名を変えたのである。

スコットランド宗教改革の発火点

聖ジョン教会(St John Church):スコットランド宗教改革はこの教会から始まった。この教会は12世紀からパースの中心であり、19世紀には多くのウイスキー・ブレンダ-がこの教会の周りに店を構えた。

パースの中心部にある聖ジョン教会は11世紀から900年に亘りパースで最も重要な場所であった。パースの建造物としても最も古いものの1つであり、多くの歴史の舞台となってきた。中でも1559年にスコットランドの宗教改革者ジョン・ノックスが行った“激情的な反偶像崇拝"の説教は、スコットランドの破壊的宗教改革の発火点となった。ジュネーブのカルビン派に学んだジョン・ノックスは、迫害を逃れてイングランド、ヨーロッパへと亡命の旅を続けていたが、1559年にスコットランドへ帰国し、その直後この歴史的説教をこの聖ジョン教会で行ったのである。ノックス自身は反対であったが、結果は地域の暴徒による教会、修道院の打ち壊しと略奪を招いた。スコットランド各地に残る大聖堂の廃墟はこの激動の時代を語っている。

2. パースのウイスキー

ウイスキー・スマッグリング

オールド・シップ・イン:パースで最も古いパブ。かってテイ河はすぐ側を流れていたと言われ、船乗りや多くの商人がこの旅籠屋に屯した。密造・密輸のウイスキーやワインなどの取引も行われたに違いない。

パースはハイランド・ライン(ローランドとローランドの境界線)のすぐ南に位置し、“ハイランドへの玄関口"といわれている。ハイランドからはテイ河に沿って南下してくるとパースに至る。交通上重要な町であったし農産物の集積地として栄えた。パース市内のテイ河には港があり、スコットランドの産品はここから輸出され、又イングランドやヨーロッパからの輸入も盛んであった。

このパースの地理は19世紀前半まで続いたハイランドからのスマッグリング(密貿易)にとってはうってつけで、ハイランドのグレン(渓谷)奥深くで密造されたモルト・ウイスキーは、小樽に入れ馬の背や小船で密かにパースに運ばれ売りさばかれた。麦芽のみを原料とし、Potで入念に蒸溜されたモルトの品質は市場で高く評価され引く手数多であった。いくら市場で人気があっても、所詮密造・密輸品であったので取り締まりの対象である。パースとその周辺ではスマッグラーと取締官の苛烈な攻防が展開された。スマッグラーがありとあらゆる知恵をしぼって取締官を出し抜いたのは言うまでもない。

パース生まれのブレンド

スペイ・ゲートのウイスキー貯蔵庫跡:19世紀に古い穀物庫をウイスキーの保税庫に改造したもの。料金を払えばどのブレンダ-でも使用できる共用貯蔵庫の第一号であった。現在はパブになっている。

現在パース市内に蒸溜所はない。過去にも2蒸溜所の存在が確認されているだけである。パースがウイスキー都市としての名を高めたのは、パースが生んだブレンデッド・ウイスキーの名品、ベル(Bell`s), フェイマス・グラウス(Famous Grouse) とデュワー(Dewar`s)による。何れもパースのワイン・スピリッツ商だった創業者が、1800年代中頃に始めたブレンドである。ベルの創始者アーサー・ベルは、その品質中心のマーケティングの思想で有名であった。“品質をして語らしめる"を信条として、長年ブランド名も付けず、宣伝も行わなかった。社会福祉家としても知られる。フェイマス・グラウスは、当初は創家のグローグ家のシンボルのグラウスから、グラウス・ブランドと呼ばれていたが、ウイスキーが有名になるにつれて“フェイマス・グラウス"と言われるようになりそれが商標になった経歴がある。グラウス(Grouse)はスコットランドの荒地に生息する雷鳥の仲間で、狩猟の対象として人気が高い。デュワーは、創業者ジョン・デュワーの次男で、19世紀後半から営業を担当したトーマスの才気あふれる営業活動が有名である。近代マーケティングの嚆矢と言われるほどで、ブレンデッド・スコッチの代表ブランドの1つとして成功を収めた。

パースのブレンドの特徴は、香気高く、奥深いながらもスッキリした味わいで、これはパースの地理的な理由から当初からスペイサイドを中心とするハイランド・モルトをブレンドの中核にしたことに因ると言われている。

ブラック・ウオッチ

ブラック・ウォッチ:ブラック・ウォッチ博物館入口の人形。帽子の上の赤い羽根飾り(Red Hackle)はウイスキーのブランドにもなっている。

パースで忘れてはならないものにブラック・ウオッチ(Black Watch)がある。この世界最強を謳われた連隊の創立は1725年。当時のハイランドは全く未開の地で、クラン(Clan。氏族)間の抗争は絶えず、また中央政権への反感も強い時代であった。この無秩序状態を監視し、ハイランドを安定させる目的で組織されたのがブラック・ウオッチである。言わば“警察軍"で、黒に近いグリーンのタータンを纏ったので“ブラック・ウオッチ"と言われるようになった。以後世界各地の戦闘に参加、“ブラック・ウオッチは戦場に一番に来て、最後に去る"とその勇猛ぶりを謳われ、多くの軍功に輝いた。朝鮮戦争時に、寄せ集めの国連軍の中で最も頼りになったのは、ブラック・ウオッチとアメリカの海兵隊と言われていた。

パースの生んだ3大名ブレンドのベル、フェイマス・グラウス、デュワーも全てパースを去り、今はグラスゴーに生産拠点を移してしまった。ウイスキーでパースを偲ばせるものは、デュワーのラベルにあるハイランド・パイパーの図柄(モデルはブラック・ウオッチ)、ブランドになったその帽子の赤い羽根飾り(レッド・ハックル。 Red Hackle)とジェームス6世が幽閉されたハンティング・タワーくらいで、いささか寂しい気がする。(了)