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稲富博士のスコッチノート

第113章 タム・オ・シャンター*

写真1.エアー(Ayr)市のバーンズ広場:エアーの鉄道駅から数分のところにあるこの広場の中央には、この町から始まるロバート・バーンズ(Robert Burns, 1759 – 1796)不朽の名作、タム・オ・シャンターに因んで彼の像が置かれている。

エアーは、グラスゴーの南西約60kmにある瀟洒な町で、グラスゴーのセントラル駅から快速電車なら45分で着く。13世紀始めに王室許諾の町としてこの地方のマーケット・タウンとエアー川河口の港からスコットランド西部や島々、アイルランドとの交易で発展した。現在の人口は約46,000人、エアーの議会都市である。古い町だけあって歴史遺産も多い。Old Kirk、St. John’s Tower、17紀にイングランドで共和制を敷いたオリバー・クロムエルが建てた星形城塞跡、230年続く英国最古のワイン商Corny & Barrow、Ayeの議会堂等である。本章の主人公、タム・オ・シャンターの名を冠したパブも、数少ない茅葺の2階建てで、外壁には1749年と表示がある。スコットランドの歴史遺産を記録しているCanmore(National Record of Historic Environment)が2014年に調査した結果では、現在の建物は1808年に建て替えられたものだそうだが、それでも210年を経過した古い建造物の一つである。

*ロバート・バーンズとタム・オ・シャンターを含み作品につては拙章第30章で一度紹介しているのでご参照ください。一部重複がありますがお許し願います。

写真2.タム・オ・シャンター・イン:エアーの駅から徒歩で数分、ハイストリートにある。内部は昔ながらの普通のパブで観光シーズンは大勢のバーンズの愛好家がやってくるが、普段の常連は地場の人の感じである。壁にはタム・オ・シャンターの詩の冒頭の4行や詩の中で出てくる光景の絵が掲げられていて雰囲気がある。

物語詩「タム・オシャンター」

露天商達が通りを去り、
早く一杯やりたい飲み仲間が集まってくる頃、
市の日は次第に暮れて、
人々は家路に着く。

(When chapman billies leave the street,
And drouthy neighbours, neighbours meet,
As market days wearing late,
And folk begin to tak the gate)

これは、タム・オ・シャンター(Tam o’ Shanter)の書き出しである。この224行に及ぶ長編詩でロバート・バーンズは、主人公のタムに代表される18世紀末スコットランドの酔っ払いの世界とケルトの伝統である妖怪変化、悪魔、妖精がいっぱい出てくる幻想の世界を見事に織り交ぜて描いた。

物語は、南エアーのキャッリック地区にあるシャンター農場に実存したダグラス・グレアムをモデルにしている。グレアムは、エアーで自分の従妹が経営しているイン(Inn, 宿屋)に醸造用に大麦を収めていて、エアーの市の日には泥酔するまで飲むことで知られていた。

バーンズがこの詩を書いたのは1790年で、物語は市の日のエアーの町から始まる。シャンター農場のタムは、何かというと出かけては有り金が無くなるまで飲んでしまう飲んだくれで、エアーの市の日の今日も、特に用事があったわけではないが、いつものように葦毛の牝馬メグに乗ってやってきた。人々は家路についたが、タムは飲み仲間の靴屋のジョニーと昼間から飲んでいた馴染みのパブに腰を落ち着け帰ろうとしなかった。

強いエールを飲み続けていると
酔いが回り何ともハッピー、
帰りの遠いスコッツ・マイル*、
沼地や沢、山道、踏段の事など忘れてしまう、
家では不機嫌なワイフがむっつりと、
さながら吹き荒れる嵐の様に眉毛を寄せ、
怒りを抱いて温めている。

(While we sit bousing at the nappy,
An’getting fou and unco happy,
We think no on the long Scots miles,
The mosses, waters, slaps and stiles,
That lie between us and our home,
Where sit our sulky, sullen dome,
Gathering her brows like gathering storm,
Nursing her wroth to keep it warm)

大阪のあるバーには「ここでは最後の一杯が何杯あるんだろう」という色紙がかかっていたし、植木等の「チョイト一杯のつもりで飲んで、何時の間にやらハシゴ酒」と同じで、酒飲みの習性は洋の東西を問わないようである。ワイフが煩わしいのも共通している。とはいっても、もう日が暮れたので、タムはメグに乗って家路についた。あいにくの漆黒の闇と嵐の中、タムはエアーから南のアロウェー(Alloway)に向けて進んだ。

エアーからアロウェーの4㎞の道のりには、何ヶ所も惨めな死を遂げた人の幽霊が出るという場所がある。浅瀬のところで行商人が雪に埋もれて窒息死したし、樺の木と大石を過ぎたがそこではチャーリーが首の骨を折った。針サンザシの横を抜け碑のある近くでは猟師が殺された子供の死体を見つけ、泉の上のサンザシの近くはマンゴーの母親が首を吊ったところである。ドゥーン川はごうごうと流れ、嵐は森の中を一層激しく荒れ狂い、天空一杯に稲妻が閃いている。その時である。異様なことに林を通してアロウェーの廃墟の古い教会から光が漏れているのが見え、ドンチャン騒ぎの喧騒が聞こえてきたのである。正気なら一刻も早くその場から遠ざかるはずだが、何杯ものエールの酔いがタムの正常心を無くし、好奇心と蛮勇を高ぶらせた。エールを飲めば禍も平気、ウイスキーを飲んでれば悪魔でも立ち向かえる気分で、何事か見てみたい気になった。メグは躊躇したが、タムの踵と手綱に促されて教会の中が見えるところまで進んだ。

*Scots mile:英国で単位が統一される前のスコットランドの1マイルは1,814mで、イングランドの1マイルの1,609mより長かった。

写真3.アロウェー・オールド・カーク:タム・オ・シャンターのクライマックス、悪魔の饗宴の舞台はこの廃墟の教会である。教会は15世紀に建てられたがバーンズの時代にはもう廃墟になっていた。道からの入口を入ってすぐにバーンズの両親の墓がある。写真の様に好天の昼間ならともかく、稲妻が空を走り、雷鳴が轟く深夜に一人で行く勇気は無い。

タムが見たものは身の毛もよだつ地獄の饗宴である。壁際には蓋の開いた棺桶がずらっと並び、死者は最後の衣装を纏って各々が冷たい手に燭台を持っている、聖餐台には首吊りの鎖のついたままの殺人犯の骨、洗礼を受ける前に死んだ赤ん坊の死体、絞首縄から下ろされたばかりの泥棒は最後の息を吸った口をあんぐりあけたままである、血のついたまさかりが5丁、息子が父親の喉を掻ききったナイフには白髪が付いている。もっと恐ろしい光景があるが、言うと天罰がくだりそうである。その中でdevil (悪魔)、ghost (幽霊)、fairy (妖精)、brownie (小妖精)、witch (魔女)、warlock (魔法使い)、kelpie (馬の妖怪)、wraith (死霊)とあらゆる魔物と妖怪が、動物の形をした魔法使いがバグパイプで吹くジグ(jig)、ストラススペイ(strathspey)、リール(reel)に合わせて踊り狂っているのである。

タムの目を引いたのは、恐ろしい魔物に混じって踊っている若い娘の妖精、ナニー(Nannie)である。自分が若い頃にお祖母さんが買ってくれた短いシミーズ(Cutty Sark)だけで飛んだり跳ねたりして踊っているナニーにタムはすっかり魅せられ我を忘れた。

タムはすっかり自制心を失い、
大声で “カティーサーク、良いぞ” と叫ぶ、
瞬間、周りは闇にもどり、
メグが走り出す間もなく、
悪魔共が襲い掛かってきた

(Tam tint his reason ‘thegither’,
And roars out, “Weel done, Cutty Sark”,
And in an instant all was dark,
And scarcely had Maggie rallied,
When out the hellish legion sallied)

タムとメグは、数百m先のドゥーン川に掛かっているブリガ・ドゥーン(Brig o’ Doon:ドゥーン橋)に向かって懸命に走る。伝承では、川の中頃を過ぎれば悪魔はそれ以上進めないと聞いていたからである。ちょうど橋の中頃に掛かろうとする頃、空中を飛んできた妖精のナニーは、メグに追いつき尻尾を掴む。それでもメグは力走したので尻尾は付け根から取れてしまったが、主人タムは救われたのである。

写真4.ブリガ・ドゥーン:15世紀に造られた石のアーチ橋で全長22m。A級指定の建造物である。物語では、メグに乗った タムは左手から対岸に向かって必死に駆けた。

詩の最後でバーンズはこう書いた。

この実話を読む人よ、
どの男も息子も気をつけよ、
酒が飲みたくなったとき、
短かいカティーサークが心に浮かんだとき、
楽しみの代償は高くつくことを、
タム・オ・シャンターの牝馬を思い出せ

(No, wha this tale o’truth shall read,
Ilk man and mother’s son take head.
Whene’er to drink you are inclin’d,
Or cutty-sarks run in your mind,
Think! Ye may buy joys o’er dear-
Remember Tam o’ Shater’s mare)

快速帆船「カティー・サーク」

カティー・サークの名はこの詩から19世紀の快速帆船へ、20世紀にはブレンデッド・ウイスキーへ引き継がれてゆく。快速帆船(Tea clipper)カティー・サークはアジアからイギリスに紅茶を運ぶ目的で建造された。造船所はグラスゴーの西約30kmのダンバートンにあったスコット・アンド・リントン(Scott & Linton)で、バランタインの元ダンバートン蒸溜所とリーヴェン川を挟んだ反対側にあった。船主はロンドンの海運会社のジョック・ウィルス(Jock Wills)で、排水量2,100トンである。何故船名を、水を渡れない妖精ナニーが着ていたカティー・サークにしたか不思議だが、造船所の設計を担当したリントンの提案という。

帆船カティー・サークは1895年まで英船籍で、アジアから茶、オーストラリアから羊毛をイングランドへ運んだが、次第に蒸気船に押され、この年ポルトガルへ売却された。船名もフェレイラ(Ferreira)に改称された。1922年、嵐で損傷して避難と修理のためコンウォールのフォルマース(Falmouth)に入港したフェレイラを見たダウマン(Wilfred Dowman-かって、商用帆船の船長を務め、フォルマースで船員のトレーニング学校を開いていた)は、何としてもフェレイラを買い戻したいとポルトガルと交渉し1923年に購入したが、この為に全財産をはたいた。再びカティー・サークに戻った船は、1936年にダウマンが亡くなる迄士官養成の練習船として使われた。1938年、未亡人のキャサリンは、以後もカティー・サークが練習船として利用されることを望み、テームズ海員養成カレッジ(Thames Nautical Training College)に10シリング(1ポンドの半分)で売却した(船の維持費として5000ポンドを付けて)。1954年に、カティー・サークはグリニッジへ回航され、修復の後1957年に一般公開された。

写真5.カティー・サークの船首像:船首像は、シミーズの胸をはだけ、左手に馬の尻尾を持ったナニーである。
Acknowledgement:https://en.wikipedia.org/wiki/Creative_Commons

カティー・サークは不運にも2007年と2014年の2回、大きな火災に見舞われている。いずれも修復されたが、コストは多大であった。まさか、船首のナニーがアロウェーのオールド・カークから魔を呼び寄せたからではないことを願う。

ブレンデッド・ウイスキー 「カティー・サーク」

1923年、ロンドンのセント・ジェームズで1698年から営業を続けているワイン商、ベリー・ブラザーズ・アンド・ラッド(Berry Bros. & Rudd)は、アメリカ市場向けに新ウイスキーを開発することにした。アメリカ市場のカクテル・ブームや嗜好に合わせて、上質だが風味を軽くし、軽さを印象つける為、それまでのスコッチウイスキーに比べて色をうんと薄くした。ブランド名に選ばれたのがカティー・サークで、丁度ダウマンが帆船をポルトガルから買い戻し、船籍をイングランドに、船名もカティー・サークに復帰した年に当る。帆船カティー・サークが英国に戻るかも知れないというニュースは前年から流れていた可能性が高く、ベリー・ブラザーズ・アンド・ラッドでランチを取りながら決まったウイスキーのスタイル、ブランド名と、ラベルに描かれた帆船の絵柄は、このニュースにインスピレーションを得たと思われる。

アメリカで、後に史上最大の社会実験と言われた禁酒法が施行されたのは1920年で、正式にはウイスキー輸出はできないが、闇ルートでアメリカに渡ったカティー・サークは、品質の高さで名声を得て行き、1933年に禁止法が撤廃された時にはもうブランド力を得ていた。帆船カティー・サークは、タム・オ・シャンターの妖精の名でイングランドへやってきたが、ウイスキーのカティー・サークでスコットランドへ里帰りした。

毎年、バーンズの誕生日の1月25日は、この詩人の偉業を記念して各地でバーンズ・サッパー(夕食会)が盛大に開かれる。タム・オ・シャンターの最後のシーンで、メグがナニーに尻尾を取られる舞台となったアロウェーのブリガ・ドゥーンのすぐ脇に、ブリガ・ドゥーン・ホテルがある。瀟洒なホテルで、結婚式やイベントに人気が高い。長年、このホテルのバーンズ・サッパーは気分が出るだろうなと思っていたが、今年の1月25日のサッパーに行くことが出来た。こちらのディナーは通例として7時半開宴で、30分前ほど前に行き1杯やりながら待つ。着席の案内でテーブルに着き、ディナーが始まる。主催者と数名の主賓の挨拶に続き、パイプバンドの入場、バーンズのハギスを讃える詩(Address to a haggis)を朗読しながらのハギス・セレモニー、食事、タム・オ・シャンターの朗読、歌、器楽演奏と続き、締めは当然各テーブルの全員10名が手をつないで歌うバーンズのOld Lang Syneであった。7時から深夜12時までバーンズ漬けの5時間であった。

写真6.パイプバンドの入場:近隣の町、メイボールのパイプバンドが上のフロアーから階段を降りてくるところ。階段をステージにして数曲披露したが、バグパイプ、ドラム合わせて10数人のバンドは圧倒的な音量で、聞いている側も勇気が沸く感じであった。
Acknowledgement:Professor A. Wolstenholme

アロウェーには、バーンズが生まれたコッテージ、博物館、記念モニュメントと公園があり、ゆっくり回ると優に一日がいる。行かれていない方は、スコットランドへ行かれる時に是非予定に入れていただくことをお勧めしたい。

  • 参考資料
  • 1. https://en.wikipedia.org/wiki/Tam_o%27_Shanter_(poem)
  • 2. https://canmore.org.uk/site/201664/ayr-230-high-street-tam-oshanter-inn
  • 3. https://canmore.org.uk/site/41593/ayr-alloway-brig-o-doon
  • 4. http://www.rampantscotland.com/know/blknow_scots_mile.htm
  • 5. https://en.wikipedia.org/wiki/Alloway_Auld_Kirk
  • 6. https://en.wikipedia.org/wiki/Cutty_Sark
  • 7. https://www.rmg.co.uk/cutty-sark/history
  • 8. https://www.rmg.co.uk/discover/behind-the-scenes/blog/catharine-dowman-and-preservation-cutty-sark
  • 9. https://www.cutty-sark.com/our-story/our-history/index.html
  • 10. https://www.nts.org.uk/visit/places/robert-burns-birthplace-museum