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稲富博士のスコッチノート

第91章 グラスゴーの風景-その2 早春のグラスゴー大学周辺

1.クロッカスの群生:北国スコットランドでも2月下旬になると長い冬が終わり、スノー・ドロップやクロッカスが咲き始めて春の到来を告げる。

グラスゴーの冬は夜が長い。冬至の日の出は朝9時、日没は午後3時45分なので昼間は7時間もない。ほとんどが雨か曇天なので日中でもいつも薄暗く精神的にはかなり過酷である。年が明けて2月も終わり近くなると日の出が朝7時20分、日没は午後5時40分と昼間が10時間20分くらいになる。冬至からは一日に3分少々ずつ日が長くなってきた勘定である。気温も朝晩はまだ0℃くらいだが、お天気が良いと日中は10℃くらいにまで上がり、なんとなく気分が明るくなる。グラスゴー大学周辺を散策した。

グラスゴー大学の正門のすぐ横に、メモリアル・ゲートと言われている鉄格子のゲートがある。1951年の大学設立500年を記念して作られたもので、ゲートの上にはグラスゴー大学に関わった著名人30名の名前が掲げられている。

2.グラスゴー大学の記念ゲート:ゲートに掲げられているのは著名な大学関係者の名前で、その中には、アダム・スミス、ジェームス・ワット、ケルビン卿などの碩学だけでなく、スコットランド王のジェームズ2世、第1代モントローズ公爵、第3代ビュート侯爵など大学の設立に関わった貴人の名前も見える。

このグラスゴー大学の正門から東に向かってなだらかな坂を200mくらい下り、右へ曲がると並木が美しいケルビンウォークへ入る。100mも行くと左側に広がっているのがケルビングローブ公園である。開設されたのは1852年、グラスゴー市が34ヘクタールの用地を買収して公園にした。19世紀中頃、グラスゴーは産業と交易で急速に発展していたが、市の西方、ウエストエンドでは中心街の過密化とスラム化から逃れて移り住んできた主として中産階級の人口が急増していて、彼らの為の憩いの施設が必要だった。

ケルビンウォークを更に200mほど行きケルビン川に着く手前で右に入ると二つの銅像が見える。手前がケルビン卿(Lord Kelvin、1824-1907)の、少し奥にあるのがリスター教授(Joseph Lister、1827-1912、後に男爵)の像である。共に長年グラスゴー大学の教授を務め科学技術の発展と多くの人命を助けることに貢献した。

ケルビン卿

3.ケルビン卿の銅像:ペンとノートを持ちながら思索に耽る様子だろうか。この晩年のケルビンの風貌は、面長、細い目、長く通った鼻筋、くぼんだ頬に深い髭を持ち、すごみのある冷徹さと揺らぎがない性格を思わせる。

ケルビン卿は、当時最も優れた物理学者兼技術者であった。本名はウイリアム・トムソン(William Thomson) , 生まれはアイルランドのベルファーストだったが、8歳の時に父親がグラスゴー大学の数学の教授に就任したためにグラスゴーへやってきた。10歳でグラスゴー大学へ入学したというから間違いなく大天才だったがグラスゴー大学は卒業せず、ケンブリッジ大と海外で学び22歳でグラスゴー大学の教授に就任した。

ケルビン卿は超マルチ・タレントの天才である。熱力学と電磁気学の研究・科学者として多くの業績を残したが、その中で最もよく知られているのはケルビン・スケールと言われている摂氏-273.15度を0度とする絶対温度の単位を確立したことだろう。温度の目盛りは摂氏と同じなので摂氏0度はケルビン温度では273.15KとなるがこのKはケルビンのイニシアルである。もう一つの功績は、熱力学の第二法則のその2のトムソンの原理といわれるもので、‘熱を100%力学的な仕事に換える事はできない(熱効率100%の機関はできない)である。現在、最高の熱効率の自動車エンジンでも、熱効率は40%に満たないことから、トムソンの原理は経験的に納得できる。

技術者としてのケルビンは、大西洋初の海底ケーブルの敷設、ケルビンのコンパスといわれる正確な羅針盤の開発、多くの実験や測定用機器の開発を行っている。1856年から始まった大西洋横断海底ケーブルのプロジェクトではケルビンは最初顧問として参加したが、ケーブルの通信速度の改善や敷設の技術にも貢献し、敷設が何度も不成功に終わった後は実質技術の責任者としてプロジェクトを成功に導いた。この功績によりケルビンは1866年にナイトに叙され、1892年には男爵の爵位を受けている。

ケルビンの教育者としての功績も大きい。53年在籍したグラスゴー大学で教えた学生は7,000人に及んでいる。特に、グラスゴー大学は明治日本の建設に大きな力となった。ケルビンは日本を訪問した事は無かったが、グラスゴー大学出身で工部大学校の教頭だったヘンリー・ダイアー(Henry Dyer)からの求めに応じてスコットランドからの教師の派遣や、日本からの留学生も数多く受け入れている。ケルビンの元で学んだ日本人は1878年から1898年の10年間に20名に及び、その中には工部大学を卒業してから留学した志田林三郎もいた。志田は帰国後工部大学校の教授を務めながら、工部省電信局の技師となり日本の通信事業の基礎を築いている。1901年、日本政府はケルビンにその学問的功績と日本に対する貢献にたいして勲一等旭日賞*を贈呈している。

ケルビンは1907年に享年84歳で没し、ロンドンのウエストミンスター寺院に葬られた。

ジョセフ・リスター

ケルビンの銅像に並んでいるもう一つの銅像は、外科医だったリスター(Joseph Lister, Baron Lister 、1827-1912) である。詳細は別の機会に譲るが、リスターはグラスゴー大学医学部の教授だった時に、ワインの発酵等微生物の研究で有名なフランスのルイ・パスツールの論文を読み、当時の外科手術で大問題だった微生物感染を器具、縫合に使う糸、患部や傷口を覆うガーゼ等を石炭酸溶液で消毒することで防止することを思いつき、実際に応用して成功した。1867年のことである。リスターは、器具や患者だけでなく、手術にあたる医師や看護婦、手術室も消毒を徹底するよう指導し、術後の感染症を劇的に減少させた。リスターのおかげで命を救われた人の数は計り知れない。リスターはその後も外科技術の改善に取組むと共に学生の教育にも力を注いだ。リスターはこれらの功績で1897年にビクトリア女王から男爵の爵位を授けられている。

ケルビングローブ美術館・博物館

4.ケルビングローブ美術館・博物館:1901年、大英帝国を繁栄に導いたビクトリア女王が崩御した年に開館した。建物のデザインはスパニッシュ・バロックで年間100万人の入場者がある。今でも入場無料、内部の写真撮影も許されている。毎年3月終わりには前庭西にある数本の桜が見事な花をつける。

ケルビンとリスターの銅像から数十m、ケルビン川の橋を渡ると、右にケルビングローブ美術館・博物館の堂々たる建物が見える。この赤色砂岩の建物は1901年、同年グラスゴーで開催された万国博覧会に合わせて美術館として建設された。正面の入り口から入ったところの中央ホールはコンサートホールを念頭に設計されていて、毎週日曜日には北壁に設置されているパイプオルガンの演奏が行われている。

ホールの左側ウイングは博物部門で、自然史や武具のコレクションで知られている。東ウイングの絵画のコレクションは、レンブラント等のオランダのオールドマスターとフランス印象派のコレクションに優れたものが多いが、この美術館で最も有名な絵画はダリ(1951年、Salvador Dali)の「聖十字架のヨハネのキリスト」だろう。

5.聖十字架のヨハネのキリスト:暗黒の空に浮かぶキリスト、十字架の下の風景はスペインの寒漁村だろうか。聖十字架のヨハネは16世紀スペインの修道僧である。ダリは彼が描いた十字架を斜め上から見たデッサンに触発され、夢に現れたインスピレーションをこの絵にしたという。205㎝x116㎝、oil on canvas

この絵は1952年にグラスゴー市が8,200ポンドで購入した。絵の価値は現在ならウン億円以上と思われるが、当時は8,200ポンドでも高い、こんな金があるのならもっと緊急に社会が必要としているものに回せ、という議論もあった。実際に、1961年には反対派の暴漢が鋭利な石と手でキャンバスを引き裂く事件が起きている。絵は修復されたが、今でも斜め下から見ると修復跡が見える。

それにしても、この絵の放つオーラは凄い。話によると、ある時、名にし負うグラスゴーの悪ガキ共が課外授業で美術館を訪れた。わいわい、がやがやと騒いでいたガキ共がこの絵の前に来たとたん、一斉に押し黙り、帽子を取って頭を垂れ、中には十字を切るものもいたという。この絵をみると、だれでも厳粛な気持ちになることは間違いない。

リスモア・バー

6.リスモアの内部:開店してから今年で丁度20年になる。ハイランドやグラスゴーをテーマにしたステンド・グラスが楽しい。大きなバーではなく、このメインバーと北側のラウンジの両方で6-70人も入れば満員なる。

歩き疲れたので、バーにでも入って休憩することにした。ケルビングローブ美術館・博物館の前の通りを西に向かって数分歩くと、ダンバートン・ロードへ入る。バイヤーズ・ロードとの交差点を過ぎて2,3分も行くと右側に一軒のバーがある。リスモア・バー(Lismore Bar、リズモアと発音されることも多い)で、相当数のウイスキーのコレクションを揃えていることで知られている。

リスモアの名は、スコットランド西海岸にあるオーバン(Oban)の北西、マル島の北東にある小さな島、リスモア島(Isle of Lismore)に由来する。現在の人口は200人程で主に農業に従事しているが、古い時代のケルトやスカンジナビアの遺跡が多く残っているところである。

リスモア・バーは地元に密着した繁盛店で、開店以来1週間の売上が最低でも260万円を下回ったことが一度も無いと言う。店は純粋にドリンク・オンリーで食事は出さない。飲み物の価格は、標準的なビールが1パイント(550ml)で3.3ポンド(約550円)、ウイスキーは銘柄で変わるが、安いスタンダードのブレンドデッド・ウイスキーは35mlで350円程度である。お値打ちは‘今月のお勧めモルト’(Malt of the Month)で10年ものレベルのシングルモルトが、同じく35mlで約400円である。

7.イアン・フォーブス:今や全英屈指の技巧派ギターリストで、世界的という人もいる。基本は、ロックだが、ジャズ、クラシック、ケルトの融合も巧みである。リリックはポール・サイモンを、激しさはジミー・ヘンドリックスをほうふつさせる。

リスモアのもう一つのエンターテインメントは、ライブ・ミュージックである。この日出演していたのは、イアン・フォーブスとパートナーの女性ボーカル。イアンはシンガーソングライター、ロックギターと歌の名手である。イアンはグラスゴーの市営住宅に住んでいた14歳の時にごみ置き場に捨ててあったギターを見つけ練習を始めた。下の3弦が無かったが買う金が無かったので1年間は上の三弦だけで弾いていたという。

15歳で家を出て、ゴルフコースのグリーン・キーパーの見習いになり13年間働いたが、終わりにはスポーツ用芝の手入れや管理をレクチャーする腕になっている。20代から30代前半までギターは自分の耳と何冊かの本による独学だったが、その後の10年間はエレキを置き、クラシック・ギターのフィンガリングと奏法を学んでいる。

いいロックを聞きながら、ビール1パイントに‘今月のお勧めモルト’をちびちびやっているとリラックスした気分になり、半日の逍遥の良い締めくくりだった。

*ケルビン卿への叙勲を依頼した当時の文部大臣から外務大臣にあてた公式文書には、勲一等旭日賞を授与されたい、とあるが、グラスゴー大学のハンテリアン博物館(Hunterian Museum)に展示されている実物の勲章の説明は‘勲一等瑞宝章(First Class Order of the Sacred Treasure)となっている。事実関係は不明である。

参考資料
1.Kelvin: Life, Labours and Legacy. Raymond Flood, Mark McCartney, and Andrew Whitaker.   
Print publication date: 2008. Print ISBN-13: 9780199231256   
Published to Oxford Scholarship Online: May 2008
2.http://www.universitystory.gla.ac.uk/memorial-gate/
3.http://www.universitystory.gla.ac.uk/biography/?id=WH0025&type=P&o=&start=0&max=20&l=
4.http://www.miyajima-soy.co.jp/kyoka/shaze26/shaze26.htm
5.http://www.universitystory.gla.ac.uk/biography/?id=WH0026&type=P
6.http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000060126.pdf
7.https://en.wikipedia.org/wiki/Kelvingrove_Art_Gallery_and_Museum
8.https://en.wikipedia.org/wiki/Christ_of_Saint_John_of_the_Cross
9.http://www.iainforbes.com/about.htm