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稲富博士のスコッチノート

第36章 ケルトの兄弟-ウェールズとそのウイスキー その1.スコットランドとウェールズの縁

ラグビーと合唱音楽で知られるウェールズは、アイルランドやスコットランドと同じケルトの国であるが、アイルランドやスコットランドが優れたウイスキーを産出するのに、ウェールズがウイスキーを造らないのは何故か長年不思議に思っていた。これについて調べている内に、ウェールズとスコットランドを繋ぐ縁に興味あるエピソードがあることを発見したので今回はそれをご紹介し、次回はウェールズにおけるウイスキーつくりの歴史と現在をお話します。

ケルトの国(Celtic Nations)

北西ヨーロッパのケルト(Celt)地域:中央ヨーロッパに起源をもつケルト人とその文化は、今では図のイングランドを除く6地域が‘ケルトの国'として人種的要素、言語、文化を保持している。ヨーロッパではその他にスペイン北西部のガリシアとアステュリア、ポルトガル北部にケルト文化が伝承されている。

現存する"ケルトの国"とは何処か?定義の仕方は研究の分野、研究者や時代によって異なるようだが、現在では"ケルトの言語と文化が残っている地域"と定義されるのが一般的である。具体的には、北からスコットランド、アイルランド、マン島、ウェールズ、コーンウォールとフランスのブルターニュ地方の6つの地域が"ケルトの国"となっている。イベリア半島北西部でお互いに隣接しているスペインのガリシアとアステュリア、ポルトガル北部もケルトの歴史遺産と文化が豊に残っているが、言語は消滅しているので、"ケルトの国"の定義からは外れる。その他、以前ケルト系の人々が住んでいたり移住していった地域もしばしばケルトのアイデンティティーを主張している。

なにしろ紀元前数百年頃のケルト地域は広大だった。東はウクライナからハンガリー、スロバキア、オーストリア、ドイツ中南部からスイスへ、西へはフランス、イベリア半島、ベルギー、ブリテン島とアイルランド及びその周辺諸島にまで広がっていた。現在のイングランド、スコットランド、ウェールズやアイルランドでも当時の住人はケルト言語を話し、ケルトの生活様式で暮らしていた。それが何故現在では"ケルトの国"といわれるヨーロッパの北西部周辺だけになってしまったのだろうか。

紀元以降、英国諸島には種々の民族がやってきた。紀元43年から410年まではローマによる統治、次いでドイツ系人種のアングロ-サクソンが移住、11世紀にはフランスのノルマン人による征服、北方からはバイキングが侵入した。このような歴史の中で、先住のケルト人と外来の各民族は紛争、融和、交易を通じて次第に融合して行き、言語は英語が主流となっていった。尚、6つの"ケルトの国"のケルト語は、ブルターニュ、コーンウォールとウェールズで使われるケルト語はブリソニック(Brythonic)、アイルランド、マン島とスコットランドのケルト語はゴイデリック (Goyderic)の2つに大別されている。

ウェールズ

カーディフ中央駅:ロンドンからウェールズへは列車で行くと、1時間少々でこのウェールズ中央駅に着く。ウェールズでは、標識はまずウェールズ語、それから英語で書かれている。この駅名もウェールズ語(Caerdydd Canalog)が先で、次に英語(Cardiff Central)である。

ウェールズは中央イングランドの西方に位置し、東はイングランドとの国境、他の3方はアイリッシュ海峡、セント・ジョージ海峡、ブリストル海峡に囲まれている。面積は20,779平方Kmで東京都の約10倍、人口は300万人弱、首都はカーディフ(Cardiff)である。ケルトの国であったが、スコットランドのような歴代の王朝をもった独立国家の形はスコットランドに比べるとやや希薄で、16世紀以降は法律、行政とも“England & Wales"としてイングランドと同じに扱われてきた。20世紀以降自治を求める動きが活発化し、1998年にはウェールズ議会が発足、条例などを独自で制定できるようになった。

ウェールズ独自のアイデンティティーを再認識する機運が高まるにつれて、古来のウェールズ語を保存しようという動きも活発である。一例は案内標識で、道路標識、地名・駅名の表示などまずウェールズ語で、次いで英語で書かれている。言語の保存には良いだろうが、車の運転で瞬間に理解が必要な交通標識などは字が多くて慣れないとすこし厄介ではある。

ウェールズとスコットランドの不思議な因縁-1.ビュート(Bute)家

カーディフ城のクロック・タワー:タワーとそれにつながる城館は19世紀にスコットランドの貴族、第3代ビュート侯爵によって現在の姿に大改装された。室内もタワーと同じく、オリエンタルで宗教的なモティーフが独特の雰囲気を醸している。

マウント・ステュアート:グラスゴーから車で約1時間のビュート島にあり、歴代ビュート家の居城である。第3代ビュート侯爵の手になる内装、調度品、絵画のコレクションは目を見張る。

ウェールズの首都カーディフに2000年前のローマ時代から続くカーディフ城があり、その一角は城館になっている。15世紀に建てられ、17世紀には一時荒廃していたが、18世紀にスコットランドの貴族ビュート家(Bute)の所有になる。ビュート家はグラスゴーのすぐ西、クライド河口に面するビュート島の貴族。スコットランドを建国したロバート・ブルースからの家系で、スコットランド出身で最初に連合王国の総理大臣になった第3代ビュート伯爵を出した名門である。18世紀に後に初代ビュート侯爵に就く当主がウェールスの貴族の女性と結婚したためビュート家はウェールズに広大な領地を所有する事になる。カーディフ城もその一部であった。

第2代ビュート侯爵は、折からの産業革命の時代に、自分が所有するウェールスの所領の可能性を見抜き、炭鉱、造船への投資で近代ウェールズの発展に貢献、同時に当時世界有数の大富豪となった。これを受け継いだ第3代侯爵は事業家というより学究肌の人物だったようで、膨大な私財を投じて60にも上る多くの歴史的建造物の復興に力を注いだ。カーディフ城の城館もその1つで、旧約聖書、アラビアなどにテーマをとった室内設計は、ビュート侯爵の宗教と神秘的なものへの強い関心を表している。彼が19世紀に復興したビュート島にあるビュート家本拠のマウント・スチュワート(Mount Stuart)も、イタリア産の大理石ふんだんに使われ、窓のステンド・グラスにはプリズムがはめ込まれて外からの光線で室内に虹がさす、神秘的な室内装飾等ウェールズ城と類似のコンセプトが用いられその美しさは息を呑むほどある。

尚、カーディフ城は1947年に、第4代ビュート侯爵の没後カーディフ市に寄贈され現在は市の所有になっている。

ウェールズとスコットランドの不思議な因縁-2.ニュー・ラナーク(New Lanark)とロバート・オーエン

ニュー・ラナーク:18世紀にスタートしたこの紡績工場跡はグラスゴーを流れるクライド川の上流にあり、ユネスコの世界遺産に指定されている。義父からこの工場を引き継いだのは、ウェールズ出身のロバート・オーウェンで、当時の悲惨な労働者の生活を改善、この地で理想的社会主義の実現を目指した。

グラスゴー市内のクライド川は、かっては造船所や船着場が何マイルも続き、自然の雰囲気は全く失われているが、グラスゴーから1時間ほどの上流にあるニュー・ラナークあたりでは自然に囲まれた渓流である。ここの急流の落差と豊富な水量を活かした水車を動力として紡績工場を建てたのはグラスゴーの実業家デール(Dale)で、18世紀の後半のことである。

18世紀の終わり頃、ウェールズ出身者で、マンチェスターで紡績工場を経営していたロバート・オーエンはたまたまグラスゴーを訪問していたが、知り合ったデールの娘と恋に落ちやがて結婚。これが縁でオーエンはニュー・ラナークの紡績工場の経営に関わることになる。

当時工場で働いていたのはグラスゴーやエジンバラからの最下層の貧困階級の大人と子供、又多くの孤児達で、労働や生活の環境は劣悪だった。デールは当時としてはましな扱いをしたようだが、博愛主義者オーエンには不十分と映る。以後彼はニューラナークで、労働者の住宅や衛生状態の改善、病院や小学校の建設、協同組合店の設置、日常の生活指導等を通じて労働者の生活を目覚しく向上させた。オーエンの思想は一部では“空想的社会主義"と嘲笑されたが、彼は実践を通じて「勤労者に良い環境を与えることが生産性の向上に繋がる」という現実を踏まえていた。

後にアメリカに渡ってユートピアを建設しようとしたオーエンの試みは失敗に終るが、公正でより良い社会をつくろうというオーエン主義(Owenism)の思想はその後の社会に大きな影響を与えた。ユネスコがニュー・ラナークを世界遺産に指定したのは、建造物だけでなくオーエンの思想を人類の遺産として認めたことによる。

ウェールズとスコットランドの不思議な因縁-3.ロイド・ジョージ(Lloyd George)

ロイド・ジョージの像:ウエールズが生んだ唯1人の英国宰相。マンチェスター生まれだったが、幼少の時からウェールズで育ち、ケルト語の一種であるウェールズ語が話せる生粋のウェールズ人であった。英自由党を率い、リベラルな思想と雄弁で有名だった。第1次大戦を勝利に導いた。

スコッチ・ウイスキーは、蒸溜後最低3年間700リッター以下のオーク樽で熟成することが義務付けられているが、この法律が出来たのは1915年でそれほど古いことではない* 。この法律を作ったのがウェールズ人の宰相ロイド・ジョージである。幼少の頃から賢い少年で知られ、周りの勧めもあって法律家になるが、ほどなく政治を志し自由党の国会議員になる。当時の英政界は貴族院で圧倒的な力をもっていた保守党の考えが支配的で、ロイド・ジョージが財務大臣時代に提唱した健康保険や年金等の社会保障の拡充、その為の高所得者層への増税や、土地に対する課税は“ラジカル"、ロイド・ジョージは社会主義者と誹謗された。社会主義という言葉が暴力革命是認の共産主義に近かった時代である。

1914年に第一次世界大戦が勃発、もともと禁酒主義者だったロイド・ジョージは戦費調達と勤労意欲向上のため酒類に対する大幅増税を提案する。ウイスキー業界はこれに反対したが、ウイスキーを最低3年間貯蔵することで出荷を制限する妥協が成立した。ロイド・ジョージの、“飲酒による戦争被害は、ドイツのU-ボ-ト全部による損害よりはるかに甚大である"という演説は有名である。

ウイスキーの貯蔵を義務付けたこの法律は、結果的にはスコッチ・ウイスキーのアイデンティティーと品質を守る上で大きな役割をはたすことになった。

1. ウェールズ「ケルト紀行」、武部好伸、彩流社、2004.
2. Cardiff and The Marquesses of Bute. John Davies, Cardiff University of Wales Press, 1981.
3. Scotch. Ross Wilson, Constable & Company Ltd, 1970.
4. Cardiff Castle. Matthew Williams, Country Council of the City and Country of Cardiff, 2006.
5. Celtic nations :Wikipedia-The Free Encyclopedia
6. Sub-Roman Britain :Wikipedia-The Free Encyclopedia
7. 10 Downing Street website
8. John Crichton-Stuart, 3rd Marquess of Bute :Wikipedia-The Free Encyclopedia
9. New Lanark World Heritage Site
10. Robert Owen :Wikipedia-The Free Encyclopedia

*熟成に使用する樽は現在ではオーク材の樽と指定されているが、1915年の法律では単に樽(Cask)となっていてオークは明示されていない。