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稲富博士のスコッチノート

第30章 自由とウイスキー

バーンズ・コッテージ(Burns's Cottage):ロバート・バーンズの生家で、庭師と小作農だった父親が建てたもの。家畜小屋、作業場、居間、寝室全て同じ屋根の下にあり、当時の貧しい農家の暮らし振りがよく分かる。バーンズは学校へは行けなかったがこの家で両親と家庭教師から基礎教育を受けた。

1759年1月25日、スコットランド南西部の町エアー(Ayr)郊外のアロウェ-(Alloway)で、貧しい小作農家に一人の男子が誕生した。父親ウィリアム・バーンズと母アグネスの最初の子供で、ロバートと名付けられたこの子が、後にスコットランドを代表する大詩人、ロバート・バーンズ (Robert Burns)に生長する。

ロバート・バーンズといっても日本での知名度は低いが、「あの“蛍の光"の原詩Auld Lang Syneの作詞者だよ」といえば、「へーそうか」と幾分親しみを感じてもらえるだろう。なにしろAuld Lang Syneは、「人類の誕生以来、世界中で2番目にもっともよく歌われてきた歌」であるし(因みに、1番はHappy Birthday to You)、最近の有力日曜紙「Scotland on Sunday」によるとバーンズは、「スコットランドが輩出した最も優れた人物10人」のトップに上げられているほどである(2位以下は、ペニシリンの発明者フレミング、建国の英雄ウィリアム・ウォレスとロバート・ブルース、ジェームス6世、アダム・スミス、アフリカ探検のリビングストン、哲学者デビッド・ヒューム、文学のウォルター・スコット、鉄鋼王カーネギー)。近年、バーンズの人気はスコットランドに限らず、世界的な広がりを見せているが、これは彼の、詩の魅力、思想、人間性、生き様が国境を超えて人々の共感を得ているからである。このバーンズの人生はスコッチ・ウイスキ-と切っても切れない関係がある。今回はバーンズの短い生涯とウイスキーに因んだ作品に触れてみたい。

「カティー・サーク(Cutty Sark)」

アロウエ-(Alloway)の旧教会:バーンズの大傑作の一つ“シャンターのタム"(Tam O'Shanter)の舞台になったところ。嵐の夜半、酒の勢いでタムは教会を覗き、魑魅魍魎の饗宴を見てしまう。バーンズの父親ウイリアムの墓もここにある。

ドゥーン川にかかる旧橋(Brig O'Doon):同じく“シャンターのタム"の舞台となったところ。“必死に逃げるタムを追っできた魔女ナニーが、タムが乗った雌馬メグの尻尾を掴んだが・・・"

ブレンデッド・ウイスキーとして名高い「カティー・サーク」は、そのブランド名を1869年にグラスゴー近郊のダンバートンで建造されたクリッパー(快速帆船)「カティー・サーク」に由来する。ラベルに画かれている帆船がそれである。カティー・サークの本来の意味は短い女性用の肌着(シミ-ズ)で、なぜこの帆船がカティー・サークと命名されたかは不明だが、オリジンはバーンズの傑作の一つ、詩物語“シャンターのタム"(Tam O'Shanter)にある。

エアーで市が立った日、タムはいつものブルーのベレー帽をかぶり、愛馬のメグに乗ってやってきた。特に用事があった訳ではないが、ひがな1日パブで“飲る"のが目的である。その日も悪友とだべり、パブの女主人とふざけながらビールとウイスキーを相当きこしめし、夜も大分ふけたのでメグに乗って帰宅の途についた。暗闇を時折稲妻が切り裂く悪天候だったが、アロウェーの廃墟になった教会まで来た時、なんと教会に明かりがついているのが見えた。しこたま飲んだエールとウイスキーが恐怖心を押しやり、タムは中を覗く。“エールを飲んでりゃ災難も平気、ウイスキーが入ってりゃ悪魔とも対決できる" (Wi'tippeny, we fear nae evil, Wi' Asquabae, we'll face the Devil)と。

しかし、そこでタムが見たものは身の毛もよだつ地獄の饗宴であった。壁際には蓋が開いた棺桶がずらっと立ち並び、多くの骸骨が燭台を掲げている、中央の台には絞首刑になって死んだばかりの男の死体に悪魔が儀式を施している、動物の形相をした年配の悪魔が吹くバグ・パイプに合わせて男女の悪魔や亡者が踊り狂っているのである。醜く、恐ろしげな魔ものに混じって、タムの目を引いたのが、カティー・サークだけを纏って踊っている若く魅力的な魔女ナニー(Nannie)で、タムは思わず“カティー・サークのねえちゃん良いぞ"(Weel done, Cutty-sark!) と叫ぶ。

一瞬にして明かりが消え、見られたことを知った悪魔が一斉にタムを追いかける。言い伝えで、魔女は川を越えられないと知っていたタムは、必死でメグをデューン川の橋に向かって走らせる。まさに橋にさしかかろうとしたその時、空中を飛んで追いかけてきたナニーが追いつきメグの尻尾を掴んだが、メグの尻尾がちぎれメグとタムは危うく難を逃れたのである。

詩の最後でバーンズは言う、「飲む楽しみには危険が伴う。酒飲みはこの物語を思い出すように」と。幻想に満ちたこの詩がなかったら、帆船のカティー・サークも、したがってウイスキーのカティー・サークも生まれなかっただろう。

「John Barleycorn」

寒冷なスコットランドでワインは出来ず、伝統的なエ-ルも、それを蒸溜したウイスキーも大麦の酒である。バーンズは相当な酒飲み(酒を愛していた)で、大麦を人に擬した詩、「John Barleycorn」(“大麦太郎"といった感じか)で大麦を称えている。

死刑になった大麦は土に埋められ死を宣告されたが、春になって芽を吹き、夏の太陽で生育し、秋には実を実らせる。刈り取られた大麦は、水攻めののち床に投げられ、乾燥塔では火あぶり、石臼で粉々にされ、あげくのはてに中味を抜き取られて皆で飲まれてしまうが、ここで人々は大麦は英雄だと知る。飲むほどに“大麦太郎"は人々の勇気と喜びを高め、苦悩を忘れさせ、涙している未亡人の心にも歌をもたらす。さあ、皆でJohn Barleycornに乾杯しよう。このスコットランドで大麦の子孫がずっと繁栄することを願って。

「ハイランド・ライン」

スコットランドとハイランド・ライン:ハイランドとローランドが法的に定義されたのは、1784年の‘もろみ法(Wash Act)'が最初である。この法律では、ローランドとハイランドでウイスキーにかかる酒税や課税方法が異なったため、地域を規定する必要にせまられた。

ハイランド・スコッチ・シングル・モルトはハイランドで蒸溜され、ローランド・シングル・モルトはローランドで蒸溜される。このハイランドとロ-ランドの境界線、ハイランド・ライン* が最初に法律で規定されたのは1784年である。この時新しく制定された酒税法(Wash Act)で、ローランドではウイスキーの税率を引き下げるとともに、課税は蒸溜前のもろみに対して行ない、ハイランドでは課税は蒸溜釜の容量に応じて課税された。ハイランドに含まれる州が規定され、ローランドとの境界線を越えてのウイスキーの移動は禁止された。

1689年から、スコットランド政府によって特別に非課税でウイスキーを蒸溜することを許されていたクロマティー半島のフェリントッシュ(Ferintosh)蒸溜所も、その特権が廃止され、この有名な蒸溜所も廃業になった。それを知ったバーンズは詩「スコットランドの酒(Scotch Drink)」で、Thee, Ferintosh! O sadly lost. Scotlands lament frae coast to coast (フェリントッシュよ、お前は残念にも無くなってしまった。スコットランドでは津々浦々嘆き悲しんでいる)と歎じた。「スコットランドの酒」は、バーンズの時代に一部のスノッブ達がフランスから輸入されたワインやブランデーを珍重することに対して、「スコットランドには、穀物の王様とも言うべき大麦から造るエールやウイスキーという素晴らしい酒があるではないか」と国民酒賞賛をしたものである。

「自由とウイスキー」

ロバート・バーンズ:このポートレートの原画は1786-1787年にかけて1787年にエジンバラで出版された詩集用に画かれた。バーンズの肖像画でもっとも有名なもので、黒い髪、大きく耀くダーク・ブラウンのひとみは、“詩人の気質をよく表していて、バーンズが熱を込めて語ると一層耀いた"(ウォルター・スコット)という。

バーンスの廟:スコットランド南西の瀟洒な町ダンフリース(Dumfries)にある聖マイケル教会のこの廟に、バーンズは夫人のジーンや子供たちと眠っている。享年わずか37歳だった。バーンズは最後の7年を徴税官の仕事につき、その間ほとんどをダンフリースで暮らした。

1784年のもろみ法の導入で、ローランドの正式免許下でのウイスキー生産は急増したが、これらはそのまま飲まれるのではなく、ほとんどがロンドンへ輸出されてジンに再蒸溜された。スコットランドからのスピリッツの輸入急増に危機感をいだいたロンドンの蒸溜業者は政府に働きかけ、1786年に法律は再度改正される。もろみ容量による課税を廃止、全スコットランドで蒸溜釜の容量に課税、スコットランドからイングランドへの輸出には厳しい関税と制限を課したのである。この煽りで、スコットランドの多くの蒸溜所が倒産した。

これに対してバーンズは、スコットランド出身の国会議員へ、祖国スコットランドの為に立ち上がるよう嘆願する。嘆願といっても、「The Author's Earnest Cry and Prayer(筆者からの心からの陳情と哀願)」は32節からなる詩で、第1節こそ“議会で思慮深く働いておられる議員諸侯に、素朴な詩人からのお願いを慎んで差し上げます"となっているが、後は現在の法律が不合理で、不正が横行してスコットランドが困難に直面していると述べ、傍観しないでしっかり対応して欲しい、と叱咤激励している内容である。詩の最後、「Freedom and Whisky gang thegether, Tak off your dram! (“自由とウイスキーは共に進む、諸君杯を上げよう!")」は、バーンズのウイスキーへの思いを凝縮した雄叫びといえる。

「徴税官バーンズ」

バーンズ・サッパーでのハギスの儀式:バーンズ誕生の1月25日は、バーンズの生誕を祝って、世界中でバーンズ・サッパーが開かれる。バーンズの詩“ハギスに献ず(Address to Haggis)"を朗してからハギスにナイフを入れ、取り分けて全員で食す。ハギスにはウイスキーをかけ、付け合わせは必ずマッシュ・ポテト(Tatties)と擂った蕪(Neeps)と決っている。

1786年、最初の詩集が発刊され、バーンズの詩人としての名声は一挙に高まるが、生活は困窮したままであった。詩人では‘食って行けない'と知っていたバーンズは農業を行ないながら作詞を続ける。1788年にスコットランド南西部の町ダンフリース郊外のエリスランド(Ellisland)に農地を借りるが、これが全く不毛の土地で農業に行き詰まり、1789年からダンフリースで徴税官(Customs and Excise Officer)の仕事を兼業する。1791年には農業を見切り、ダンフリースに転居、徴税官を本業とするようになる。

所得税や事業税等の税法が未発達だった当時、Customs Duty(関税)やExcise Tax(間接税)は重要な財源で、徴税官が脱税の防止と徴税に当った。どの時代にあっても、喜んで税金を払う者はいない。徴税官は市民の間で最も不人気だったし、命の危険にも遭遇する。バーンズもいつも銃やピストルを携行して任務に当った。徴税官としての成績は優秀だったようで、すぐにスーパーバイザーに昇進している。

エリスランドからダンフリースの時代、バーンズは激務の間に作詞を続け、多くの傑作を生んだ。今まで触れたAuld Lang Syne, Tam O'shanter, 第2のスコットランド国歌とも言われるScots Wha Hae, 徴税官の自分をからかったThe Deil's Awa Th' Exciseman, 最高の作品といわれるIs There for Honest Poverty 等多数に上る。

「人間バーンズ」

バーンズは農民詩人(Ploughman poet)といわれる。少年時代から、過酷な農作業と貧困の中で暮らしたバーンズは、この世の不条理をいやというほど感じていて、このことが彼を詩の世界に向かわせた。深い思想と強固な意志の持ち主でもあったバーンズは、当時としては非常に革新的な思想を持ち、詩の中で民主政治、平等主義、階級制の批判等を庶民の声として語っている。

高い理想の一方で、バーンズは弱さ丸だしの人間でもあった。飲んだくれだったし、女性関係は滅茶苦茶、多くの私生児をもうけている。女性への渇望はコントロールできなかったようだが、有名な恋愛詩、Ae Fond KissやO My Luv is Like a Red, Red Roseはこの心情の発露だろう。

女性をめぐる行ないで、死後天国の門へやって来たバーンズが、聖ペトロに「お前は地獄行きだ」と追い返されるジョークがいくつかあるが、これだけ人々に夢、感動、勇気を与え、思想や英国文学には大きな影響をもたらし、ウイスキーにも多大の貢献をしたバーンズは天国でも良いのではないか。1796年7月21日、バーンズはリュウマチ性心臓疾患で死去。享年わずか37才だった。葬儀の列には一万人が加わった。

毎年1月25日のバーンズ生誕の日は世界中でバーンズ・サッパー(夕食会)が開かれる。今年は数日過ぎてしまったが、この記事を読まれたら早速バーンズにウイスキーで乾杯しよう。Tak Off Your Dram!

1. Scotland on Sunday, January 8, 2008.
2. The making of Scotch whisky. John R. Hume and Michael S. Moss. Canongate Books Limited, 2000.
3. Burns in Scotland. National Burns Collection Project. 2004.
4. Robert Burns, the Exciseman. Graham Smith. Alloway Publishing Ltd. 1989.
5. Beyond the Highland Line. Caroline Bingham. Constable, London 1995.
6. ロバート・バーンズ詩集.ロバート・バーンズ研究会編訳.国文社 2002年
7. Robert Burns Tribute - Burns Supper, Haggis, Poems and more
8. The Robert Burns World Federation
9. Robert Burns Country

*ハイランド・ラインには、いくつかの定義があり、そのラインの位置や規定される地域が異なる。スコッチ・ウイスキーで用いられるものに加えて、伝統的にハイランドと呼ばれていた地域との境界線、地質学上のハイランド断層のライン、現在の行政地域を表すもの等がある。