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稲富博士のスコッチノート

第100章 バランタイン・ウイスキーの話―その1.ジョージ・バランタイン

2001年4月からこのサイトに拙文の寄稿を始めてもう100回になる。ご高覧いただいてきた読者の方々には心から御礼申し上げます。

写真1.ジョージ・バランタイン(George Ballantine):現存する唯一の写真である。風貌から、意志が強く実直そうな性格が窺える。

ご存じの様に、このサイトは日本のバランタイン・オフィシャルサイトであり、読者にバランタイン・ウイスキーに関する情報をお届けするのが目的であるが、私が執筆してきた内容は、広くスコッチ、アイリッシュ・ウイスキー、ジン、スコットランドに纏わる歴史、文化やイベント等、バランタイン・ウイスキーと直接関係のない事柄もカバーし、随分気儘に書かせてもらってきた。100回を迎えたので、一度バランタインに里帰りしたいと思う。

ジョージ・バランタイン(George Ballantine)という男がいた。1809年生まれ1891年没。激動の19世紀を生き抜き、現在スコッチウイスキーとして世界第二位のブランドとなったバランタインの創始者である。今回は彼のウイスキーに賭けた生涯について記したい。

19世紀のスコットランド

ジョージ・バランタインが生きたスコットランドの時代背景を概観する。我々が英国と呼んでいる国は、正式な国名は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)」で、現在はイングランド、スコットランド、ウエールズと北アイルランドから成るが、19世紀当時は、現在のアイルランド共和国も含まれていた。イングランドを中心とした19世紀の英国は、産業革命を背景に世界に覇をとなえたが、スコットランドも大変化の時代だった。

政治的には、長年連合王国の一員でありながら、英国国王は17世紀から一度もスコットランドを訪問しなかったが、1822年にジョージⅣ世がエジンバラを訪問、次いで1842年にはビクトリア女王と夫のアルバート公が行幸するイベントがあった。スコットランドがすっかり気に入った女王はバルモラール城を購入、全英にスコットランド・ブームを起こすきっかけとなった。

工業技術は、ジェームス・ワットの改良型蒸気機関が産業革命を牽引し、グラスゴーを中心に造船や蒸気機関車などの重工業が発達し富を蓄積した。急激な発展は、多くの労働者を都市に呼び込んだが、劣悪な労働条件とスラムの形成という高い社会コストを払うことになった。

ハイランドでは、羊毛の需要に応えるため、伝統的な小作農家を追い出して羊を導入するハイランド・クリアランスが起こり、多くのハイランダーが大都市や海外に移住した。

鉄道網が発達し、人、ものの移動に革新が起こり、産業革命を加速した。上下水道の整備が進み、衛生状態が大幅に改善、新聞や電話の普及で、社会の情報システムが一変した。学校制度が敷かれ、人々の識字率や計算能力が高まった。Walter Scott, George Stevenson, Conan Doyleなどの文学者、Henry Raeburn David Wilkieなどの画家を生んだし、スコットランドへの関心は、イングランド人のEdwin Henry Landseerがスコットランドをテーマにした名画を描くきっかけになった。

ジョージ・バランタインの生い立ち

写真2.ブロートン・ノウ・ファーム:ブロートン村から2㎞ほど北、国道A701から西へ1㎞ほど入ったところにある。ジョージ・バランタインはここの農家で生まれた。

エジンバラの市域に接して、南はイングランドとの国境までボーダーズ(Borders)と言われる地域がある。面積4,700㎞²は日本の県でいえばちょうど和歌山県の広さに相当する。人口は11万人ほどで大きな都市は無く、主な町は最も大きなガラシール(15,000人)、ついでハーウィック(14,000人)、ピーブルズ(8,000人)である。地域は19世紀から20世紀前半には紡績業が盛んだったが20世紀には廃れ、現在は明媚な風光と多くの歴史遺産を活かした観光と伝統的な農業が中心となっており、また車で1時間ほどのエジンバラのベッド・タウンの町となっている。

そのボーダーズのエジンバラからやや南西へ40㎞ほどの所にブロートン(Broughton)という小村がある。家の数は130戸ほど。村には、小学校と万屋の商店が一軒、レストラン・バーが一軒、それにクラフトビール醸造所がある。村の周りは、ローランド特有のなだらかな丘陵で、牧場、麦畑、森林が広がっている。

1809年、そのブロートン村の北外れ、ブロートン・ノウで歴代小作農を営んできたアーチバルド・バランタインとクリスティン夫妻に男の子が生まれジョージと命名された。次男で上に姉二人と兄がいた。ジョージが3才になった頃、一家は北へ15㎞ほどのウエスト・リントンへ引っ越した。小作権の継続を巡って、地主との交渉が上手く行かず立ち退いたようである。

写真3.ウエスト・リントンの聖アンドリュー教会:この建物は18世紀の建造だが、入口のゲートには1160年―1960年とある。少年ジョージは日曜日には父母や兄弟と一緒に礼拝に訪れた。

ウエスト・リントンは、最初の歴史的記録が12世紀にさかのぼる古い町で、もっとも中世の面影を今でも残している町と言われている。場所は特定されていないが、ウエスト・リントンでも農業を営み、小麦、オーツ、亜麻を栽培し、羊と牛を育てたが地味は痩せていて一家が食べてゆくのは大変だった。一家は、朝はオート・ミールと、バターを取ったあとの脱脂乳を飲み、メインの夕食は羊の油をじゃがいもに付けて食べ、時々塩漬けのマトンがあればご馳走だった。母親はバターを作り、夜なべで羊毛を紡いで家計を補った。ジョージは5才から地元の小学校に通った。好奇心旺盛で勉強好き、真面目で良く頑張る性格だったが、農繁期には学校を休んで父親の農作業を手伝った。

年季奉公

ジョージが13才で小学校を終えたとき、父親はジョージをエジンバラの食料品店に奉公に出すことを決めた。農業は兄が継ぐことに決まっていたし、家計は苦しくジョージを養育して行く余裕はなかったし、将来の見通しも立たなかったからである。1822年の5月、父親のアーチバルドは、日曜の礼拝に着てゆく一張羅を着こみ、ジョージを伴って馬車でエジンバラへ向かった。立襟のシャツを着て旅行バッグを抱えた少年ジョージは緊張気味であった。向かった先はエジンバラで食品・ワイン・スピリッツ商を営んでいるアンドリュー・ハンターの店である。ウエスト・リントンからエジンバラまで約28㎞、現在のA72号線でエジンバラの南に横たわるペントランド・ヒルに突き当たり、その南麓にそって東に向かう道である。当時は 穴凹だらけの道で馬車でも数時間を要した。

写真4.ブリスト・ポート:ジョージ・バランタインが奉公したアンドリュー・ハンターの食料品店があった所。後にジョージ・バランタインが店を構えたキャンドルメーカー通りの最南端に、忠犬ボビー由来のボビーズ・バーがあるが、ブリスト・ポートはジョージⅣ世橋通りを挟んでほぼ反対側にある袋小路である。袋小路の左側は2006年に出来たスコットランド国立博物館になっているので、その様子はハンターが店を開いていた頃とは異なっていると思われる。

ハンターの店は、オールド・タウンといわれる旧市街のブリスト・ポートにあり、彼らが着いた時にはハンターが店の前で待っていた。どういった挨拶を交わしたか分からないが、ハンターは彼らを店内に案内した。店内はやや薄暗く、スパイス、紅茶、コーヒー、果実、魚等の匂いが一杯だった。何樽か扱っているワインやウイスキーの小樽も置かれていた。ハンターは、店の奥の小さな物置を見せたが、そこがジョージの寝泊まりする場所であった。案内が終わると、ハンター、ジョージと父親のアーチバルドはジョージのIndenture(年季奉公契約書)にサインした。契約内容は厳しいものだった。奉公期間は5年、休日は一週間に半日、一日欠勤すると理由の如何を問わず奉公期間は二日延長される。契約を解除した場合は10ポンドの違約金を支払うことになっていて、これはジョージも父親のアーチバルドもとても支払えない金額だった。奉公を全うする以外術は無かった。奉公の対価としてハンターは、住む所と食事、少々の給金を提供し、商売に関するノウハウを教育するという内容であった。ジョージは早速働き始めたが仕事はきつかった。勤務は早朝から日暮れまで、仕事は店の片づけ、掃除、荷物の受け取り、小分け、配達等多岐に亘ったし、何百という商品を理解するだけでも大変だった。

ジョージが働き始めて3か月後の8月はエジンバラとスコットランドにとって画期的な時となった。英国王ジョージⅣ世が英国王として171年ぶりにスコットランドを訪問するという大イベントがあったからである。ジョージⅣ世と供の者や要人がエジンバラ城へ入場する行列が通るハイストリートは、ジョージが働いているブリスト・ポートからほんの数分の距離にあり、ジョージは休みの日だったら見に行ったに違いない。

ジョージⅣ世がエジンバラ滞在中に是非といって所望したのがThe Glenlivetのシングル・モルトであったが、当時ハイランドのウイスキーは全て密造酒で、国王は自分がサインした密造禁止の法令を自ら破ったことになる。法律の事は念頭になかったようである。

仕事はきつかったが、ハンターはジョージを良く教育した。取引先の事、配達された物品を検査する要点、商品知識、店内の展示、顧客に関する情報や客への接し方、帳簿の付け方等を細かく教えた。将来は自分の店をもつことが夢だったジョージは一生懸命勉強した。5年は長かったが奉公は1827年5月に明けた。ハンターは年季奉公契約書に「ジョージ・バランタインは、真面目に、正直に、信頼を裏切ることなく奉公を終えた」と記し奉公明けを証明した。

ショップ・オーナー

独立したジョージはまだ18歳だったが、自分の店を持つことに決めた。自分の蓄えと叔父の援助でブリスト・ポートから数百mのカウ・ゲート(Cow Gate) に小さなスペースを借り、食料品店を開いた。カウ・ゲートは、その名前の通り、市が立ったグラス・マーケットへ牛や羊を追い入れた通りである。25 Cow Gateが店の番地であった。店は開いたが、人を雇う余裕はなくすべて自分でやらなければならかった。カウ・ゲートはごみごみした下町で、上層の顧客がおとずれる場所ではなかったが、ジョージはそんな場所で店に来てくれる顧客のニーズと商売のやり方を日々つかんでいった。毎日、開店すると店の前に立ち、通りがかりの人々に挨拶して顔を覚えてもらう努力を重ねた。店に来てくれた客との会話を通じて、顧客のニーズをつかみ品揃えに反映させた。

写真5.グラス・マーケットから見たカウ・ゲートとキャンドルメーカー筋の交差点:ジョージが最初の店を開けた25 Cow Gateは、正面の通りを数百メートル先、2番目の店である57 Candlemaker Rowは右へ数十メートル上がったところにあった。

商売は着実に伸びたようで、4年後にはより好立地のキャンドルメーカー筋へ店を移している。この頃から、食料品に加えてワインやスピリッツに力を入れ始めたようで、「食品・酒類店」を名乗るようになった。更に、5年後の1836年にはより人通りの多い繁華街のサウス・ブリッジ67 番地に店を移したが、この頃から、ジョージはウイスキーのブローカー仲間との交流が増え、ウイスキーとそのビジネスについて知識を蓄え、業界での信用を得ていった。

ジョージ・バランタインが修行し、後に独立してから成功を収めていった19世紀中頃は、スコッチウイスキーの変革の時代であった。まず、1823年に制定された新しい酒税法で蒸溜の免許が取得しやすくなり、多くの密造業者が正規のライセンスを取得した。1830年には、アイルランドのカフェーが連続式蒸溜機の特許を取得、スコットランドのいくつかの蒸溜所でグレーン・ウイスキーの製造が始まった。1853年には同じ蒸溜所で蒸溜されたウイスキーなら、年数の異なるウイスキーを混ぜ合わせるヴァッティングが許可され、更に1860年には、蒸溜所が異なるウイスキー同士のブレンドが可能になった。

写真6.ジョージ・バランタインの3番目の店舗があった67 South Bridge:エジンバラ大学のOld Collegeの真正面にあり、今はバーになっている。

これらの税制と技術の改革は、ものつくりから流通まで大きな変化をもたらした。製造も流通も禁を犯して密造酒をつくり、闇で取り扱うのではなく正式のライセンスさえ取れば堂々とウイスキーを売れるようになったのである。ジョージがサウス・ブリッジに移転した頃にはウイスキーの市場が広がりつつあり、この動きを見ていたジョージは、ウイスキーの将来性に大きな確信を持つようになった。

ケルソー(Kelso)の時代

事業は順調に運んでいたが、1851年にジョージはエジンバラから南東へ約70㎞のケルソーへ移る。理由は定かではないが、ビクトリア時代になって急速に発展しつつあったエジンバラの喧騒と環境の悪化を家族が嫌い、閑静なところを望んだのが理由であると言われている。当時、ケルソーは毛織物で繁栄していて、町は小さいがジョージが食料品・ワイン・スピリッツの店をやって行くには十分な市場があった。

事業の中でもっとも伸びていたのはウイスキーである。ジョージは色々な蒸溜所のウイスキーの在庫を増やし、シングル・モルトに加えて独自のピュア・モルト・ウイスキーを開発して販売した。長期貯蔵したシングル・モルトも、ピュア・モルト(複数のモルトをヴァッティングしたもの)も新しい提案で好評だった。

再びエジンバラへ

1867年、ジョージは58才になっていた。仕事は順調であったが、今後の事業の発展を考えるとケルソーはやはり小さすぎたし、彼の上二人の息子達も独立する年になっていた。ジョージはエジンバラに戻ることにした。エジンバラの店は30 North Bridge、ジョージが1851年まで店をやっていた67 South Bridgeすぐ北である。ジョージの3人の息子たち、アーチバルド、ダニエル、ジョージ(ジュニア)も成長し、開店の準備を手伝った。

店を再開してからしばらく経ったある時、ジョージはウイスキーの供給元のブローカーを回っていた。その一軒で、各種モルト・ウイスキーをテイスティングしていた時にブローカーがこれはどうか、といってグレーン・ウイスキーをもってきた。ジョージは、そのクリーンで軽い風味に驚いたが、グレーンにモルトを配合するアイディアが閃き、早速いくつか試してみることにした。これはと思われる配合を選び、ブレンドし再び樽にもどして数週間マリーしてから再度テイスティングしてみると、軽い、スムース、複雑、バランスが良く美味しい、というシングルモルトやグレーン・ウイスキーとは異なる風味のウイスキーが出来上がっていた。飲んだ後の満足感も十分だった。バランタイン・ブレンドの誕生であった。

グラスゴーへ

1870年のことである。ジョージは61歳になっていたが事業意欲は衰えず、エジンバラより大都市でより活力があり、急激に発展しているグラスゴーに進出する事に決めた。エジンバラの店は上二人の子供に任せ、新しく開店するグラスゴーの店は自分と末っ子のジョージ(ジュニア)でやっていくことにした。1870年5月の開店にあわせてGlasgow Herald紙にGeo. Ballantine & Son名で広告を出した。店はジョージ(ジュニア)に任せ、ジョージ自身はエジンバラに住み、時々汽車に乗ってグラスゴーへ出かけて店の様子や売り上げ状況をチェック、また大事なことには相談にのっていた。グラスゴーの人の多さと町のダイナミックな様子はジョージが想像していた以上であったし、産業の発展で財をなした富裕層からの高級ワインやウイスキーの注文も多かった。

写真7.1890年頃のバランタイン広告:上は”Ballantine’s Old Scotch Whisky Five Years Old” で価格は40シリング/ダース、下は”Finest Old Scotch Whisky Nine Years Old” 45シリング/ダース、とある。一本当たりの価格は、現在の価値に換算して約£20(3,000円-3,500円)である。

バランタインのウイスキー・ビジネスの好調は続き、数量が増えたので今まで外注していた貯蔵やブレンドと瓶詰めを自分で行うことにし、グラスゴーはUnion Streetのすぐ近くに瓶詰め設備を、エジンバラはリース(Leith)港のすぐ西側に保税庫と瓶詰め設備を設けた。1867年に開発したブレンデッド・ウイスキーはその後、配合するモルト数も増やし品質の向上を図っていった。製品と会社の評価も上がり、あるグラスゴー紙は、“Geo Ballantine & Sonは、優れたハイランド・ウイスキーのブレンダーとしての高い名声を得ている”と報じた。

終焉

ジョージ・バランタインは老齢になっても活動的だったが、80歳で完全に仕事から手を引いた。81歳の時に妻のメアリーを亡くし、その頃から出かけることもなくなり、エジンバラの自宅でぼんやり時間を過ごすようになった。健康も精神力も徐々に衰え、1891年の4月、長男のアーチバルドに見守られながら静かに息を引き取った。ジョージ・バランタインはエジンバラ市の中心部からやや南にあるグレンジ墓地に、若くして亡くなった最初の妻のイザベラ、早世した次男のダニエル、2番目の妻のメアリーとともに葬られている。

写真8.ジョージ・バランタインの墓:ジョージが39歳でまだ67 South Bridgeの店を経営していた時に、最初の妻を亡くし建てたもので、大成功したビジネスマンの墓としては質素である。

ブロートンの貧農に生まれ、13歳の徒弟奉公から80歳まで働きづめに働いて今日のバランタイン・ウイスキーの礎を築いたジョージ・バランタインに、しばし黙祷を捧げた。

参考資料
1. Mantle, Jonathan.The Ballantine Story、George Ballantine & Son Ltd, 1991.
2. Nown, Graham. The Scotch, Allied Distillers Limited, 1996.
3. Arthur, Helen. BALLANTINE’S – THROUGH THE EYES OF GEORGE The life of George Ballantine by Helen Arthur, Draft of the unpublished book in Chivas Brothers Archive, 2012.
4. https://en.wikipedia.org/wiki/Broughton,_Scottish_Borders
5. https://en.wikipedia.org/wiki/West_Linton
6. http://gaedin.co.uk/wp/new-history/landmarks/grange-cemetery