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稲富博士のスコッチノート

第5章 製麦

大麦を乾燥するキルンは蒸溜所のシンボルでもある。上部の独特の外観は"パコダ"と呼ばれる。乾燥中の排気口である

LaphroaigのFloor Malting。水分を吸わせた大麦を床に広げ時々攪拌しながら1週間程度発芽させる

発芽した大麦を乾燥させる時にこの炉でPeatを燃やし独特の薫煙香を与える。Laphroaigのウイスキーはこの香が非常に強い

穀類を発芽・乾燥する事をMalting(日本語では“製麦")と言う。大麦を発芽・乾燥したものはBarley Malt(麦芽或いはモルト)、ライ麦を使えばRye Malt(ライ麦芽)である。今回の記事はこの麦芽を作る製麦についてである。

スコットランドで蒸溜所の多い地方を旅していると、独特の尖塔のある建物をみかけることが多い。これはモルト蒸溜所の麦芽の乾燥塔で、大麦を発芽させて麦芽をつくる最終工程で発芽した大麦を乾燥する為のものである。これらモルト蒸溜所の製麦工場は19世紀後半から20世紀前半にかけて建設され、現在では操業していないものが多いが、数箇所の蒸溜所では今でも伝統的な方法で製麦が行われている。そのプロセスの概略は下記のようになる。

1. 原料大麦
スコットランドでは大麦は例年8月末から9月中旬にかけて収穫されるが、収穫されたばかりの大麦は発芽しないので、最低でも2ヶ月程は貯蔵しておく。

2. 浸麦
発芽するようになった大麦(5-10トン程度)を大きなタンク(浸麦槽)にいれ水を張って大麦に水分を吸収させる。数時間経ったら一旦水を抜いて7-8時間大麦を空気にさらし、酸素を与える。この操作を2-3回繰り返すと大麦中の水分が45%程度になり発芽の準備が整う。

3. 発芽
大麦をコンクリートのフロアーに広げ、1週間程度発芽させる。発芽中は大麦の層の厚さを加減したり時々攪拌したりして、温度や水分の又麦が絡み合わないような管理が必要である。指先で大麦粒の内容物を取り出し、親指と人差し指の間で伸ばしてむらなく伸びるようなら発芽の終了である。

4. 乾燥
発芽が終了すると成長を止める為に、大麦を乾燥塔の網目のフロアーに移し下から温風を送って乾燥する。乾燥開始直後は温度を低く、徐々に温度を上げて麦芽の酵素力を落とさず且つ乾燥による好ましいフレーバーを付けることがポイントとなる。この乾燥の工程ではピートを燻してピーティー、スモーキーと言われるスコッチ特有の香気を付ける。

これが現存しているフロアーモルティングだが、19世紀前半までスコットランドのハイランド地方や島々では農家や豪族の館、修道院などで小規模なウイスキーの蒸溜が行われていた。蒸溜器の大きさは10-20リットル程度、従って1シーズンに使用された大麦でせいぜい数百Kg程度と思われる。この場合の製麦は、大麦を大きな麻袋にいれ近くの小川に投げ込み、3日くらいして大麦がたっぷり水分を吸ったら納屋の床に広げ、シャベルで時々ひっくり返しながら10 日数日間発芽させ、頃合をみて乾燥したと考えられている。

Pauls社Glenesk工場の浸麦槽。数時間は大麦を水に浸し、その後水を切って通気し酸素を供給する

Pauls社Burry St Edmunds工場の浸麦兼発芽装置。大型のレーキが回転し麦の絡み合いを防ぐ。仕込量はフロアモルティングの数十倍

発芽に伴って下方に伸びてくるのは根である。芽は成長しているがまだ大麦の穀皮の中にある。根は乾燥後除去される

近年多くの蒸留所では製麦を行わず、麦芽は専門の製麦業者から購入することが多い。専門の製麦工場は大規模化が進み、生産性が著しく向上した。コストの削減と並んで、生産される麦芽の品質と品質の安定性も格段とよくなったが、これらを可能にしたのは発芽に関する研究と生産への応用技術の進歩である。浸麦から乾燥にいたる全ての工程で、水分、酸素、炭酸ガス、温度等が大麦の発芽や出来上がる麦芽の品質どのような影響を与えるか発芽の生理学、生化学、化学の広範な研究が行われその成果が大きく貢献した。加えてこれらの知見を工場に応用する近代的なエンジニアリングとコンピュータ制御の力も大きい。このような近代技術を駆使した大規模工場と、手作り性豊かな蒸溜所でのフロアーモルティングとが並立しているところが興味深い。

最後に基本的な質問に戻る。そもそも何故大麦から直接ウイスキーやビールが製造されず、まず麦芽の製造が行われるのだろうか。人類が最初に作った酒はワインのように果物を醗酵させたものと考えられている。穀類の場合は醗酵させて酒にするのは果実ほど簡単ではないが、その理由は穀類には果物と異なり酵母がそのままで醗酵出来る糖分はほとんど含まれておらず、糖質のほとんどは酵母が利用できない澱粉の形で貯蔵されているからである。ウイスキーの原料になる大麦は一見非常に無愛想で扱い難い。厚い皮に覆われて硬く食べ難いし、味も美味しいとはいえない。しかしながらこの大麦は一度発芽させてやると見事な変身を遂げ、柔らかく風味に優れて消化し易く、ビタミン等の栄養価が高く又非常に強力な酵素力を持つ麦芽になる。この酵素力を利用して麦芽自体の澱粉やその他の穀類の澱粉を糖分に変えると今度はその糖分を酵母が醗酵して酒が出来ることになる。この麦芽の性質の発見と製麦技術は人類が創りだした農産物加工技術の中でも特筆すべき大イノベーションなのである。

人類が最初に製麦の技術を習得したのは紀元前3千年頃のメソポタミヤ人と考えられている。前回ご紹介したOrkney島Scara Brae遺跡(前6千年)でビールが造られていたのではないかという論議が行われている。人類は本当に古くから手に入る植物資源をなんとか食料や酒に変え、まず生きること、次いで生活の楽しみの充実に知恵を絞って来たことが窺われて興味深い。