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稲富博士のスコッチノート

第62章 ドランブイ・ストーリー その2.ブランド形成期

ブロードフォード・ホテル:1611年から400年続くこのスカイ島で最も古いホテルで、ジェームス・ロスはフランス起源のレシピに基づいてドランブイを開発・製造した。入り口に掲げられた銘板に「ドランブイ発祥の地」とある。

スカイ島南部、スコットランド本島からスカイ・ブリッジを渡って10数キロも行くと、ブロードフォードという小さな村に着く。ドランブイ・リキュールはこの村にあるブロードフォード・ホテルで誕生した。1893年のことである。

ステュワートの英王国への復権をかけて、"ボニー・プリンス・チャーリー"が1745年から46年に起こしたジャコバイトの軍事動乱については前章で述べた。場所、日時、誰から誰へ、は特定されていないが、ドランブイのもとになったフランス起源のレシピは、この動乱中に、ジャコバイト軍の士官からスカイ島南部地方のクラン(氏族)でジャコバイト軍に参加し、後に逃亡中のチャールズを助けたマッキノン一族に手渡されたことは確かなようである。以後百数十年、マッキノン家はこのレシピを秘蔵していた。

レシピの発見

1871年の事である。マッキノン・クランの長老の一人、アレキサンダー・マッキノンが死去、遺品を整理していた子息の一人がフランス語で書かれた霊薬酒のレシピとおぼしき紙片を発見した。マッキノン家に代々伝承されていたジャコバイトとレシピの話を思い出した彼は、家族と相談の上このレシピを父アレキサンダーの古くからの友人で、ポートリー(Portree)でロイヤル・ホテルを経営していたジョン・ロス(John Ross)へ手渡した。レシピを受け取ったものの、ジョンはすぐには何もせず数年が経過した。1880年頃にジョンの息子でブロードフォード・ホテルを経営していたジェームス・ロス(James Ross)は、このレシピを見て、これでつくったリキュールはどんな味がするか試して見ることにした。

ジェームス・ロスの挑戦

ジェームス・ロス:マッキノンがジャコバイト軍の士官から受け取ったフランス起源のレシピをもとに、ドランブイを開発、商業化した。スカイ島では尊崇を集める紳士でもあった。(Courtesy & copyright H. Dixson)

ジェームスは、ブロードフォード・ホテルの裏の別棟で、妻のエレノアの協力を得ながらレシピを調整し試作を重ねた。オリジナル・レシピからの変更の第一は、リキュールのベースとなる蒸溜酒をブランデーからウイスキーへ変更したことである。色々のウイスキーを試したが、最終マッケンジー(G. R. MacKenzie)社のシングル・モルト、クィディック・アン・リー(Cuidich an Righ)* 7年物に落ち着いた。ボタニカル類の調合も難航した。オリジナル・レシピにある草根・木皮のいくつかはスコットランドでは入手が難しく、フランスなどから輸入する必要があった。甘味は砂糖にヘザーを含むハニーの比率に工夫を凝らした。

これならという試作品が出来上がった処で、ジェームスは友人を招いて試飲会を開いた。出席者は新リキュールの美味しさに驚き口々にゲール語で、‘アン・ドラム・ビュイ(An dram buidheach、満足のゆく酒)!’と言ったのがドランブイのブランド名になった**。新リキュールは、しばらくはホテルの中でのみ提供されたが、ジェームスはこの名前を商標登録し製品として販売することにした。1893年にドランブイは商標として認可された。

ブロードフォードにあるジェーム・ロスの記念碑:ジェームスのドランブイに対する先見性、開発、ブランド化と初期のマーケティング、それと地元への多くの貢献を記念してジェームスの友人、知人が建立した。

ブロードフォード・ホテル裏の工房ではリキュール作りに忙しかった。レモンの皮を剥き、ハーブを浸漬し、ウイスキーと糖分を加え、出来上がったリキュールを濾過し出来上がった中味はあの独特の形状のボトルに詰めた。ラベルはエレノアがデザインした金色のラベルを貼った。ラベルには‘A link with the 45’(45年との絆)と書かれ、1745年のジャコバイトの蜂起との関連を示した。製品はブロードフォードの港で蒸気船に積込み当初はスコットランド西部へ、順次以遠へ出荷された。

事業は順調に拡大したが、1902年のクリスマス直前ジェームスは57歳の若さで急逝した。クリスマス・イヴに執り行われた葬儀には、厳寒でじめじめした天候にもかかわらず、地元スカイ島の知名人多数が参列し、さながら‘スカイ島人名録’を見ているようだったという。全員尊崇を集めながら早世したこの事業家の死を悼んだ。(写真3.ジェームス・ロスの記念碑)

エジンバラのマッキノン

カラム・マッキノン:ロス家からドランブイ事業を引き継ぎドランブイを世界ブランドへ育成した。(Courtesy and copyright The Drambuie Liqueur Company)

ジェームスの死で寡婦となったエレノアには、ブロードフォード・ホテルとドランブイの経営、加えて6人のまだ小さな子供達の養育という重圧がのしかかって来た。ドランブイの経営は軌道に乗り始めたとはいえ、生産から販売まで気が遠くなるような仕事があり、自分だけでは無理と判断したエレノアはドランブイの仕事はマネージャーを採用して任せることにした。当初は順調に行きそうだったが、このマネージャーの任命は全くの期待外れで、ドランブイ事業は凋落を始める。販売、生産ともがた落ちになり、事業の継続は困難と判断したエレノアはドランブイ事業を閉鎖、ホテルも売却して一家はエジンバラへ移った。

エジンバラでエレノアは、長男ジョンの教会の友人、マルコム・マッキノン(Malcolm MacKinnon)を知る。話はややこしいが、マルコム(通称カラム=Calum)のマッキノンは、スカイ島の出身だがドランブイのレシピを秘蔵していたマッキノンとは別のマッキノン家の出である。エジンバラでワインやウイスキーのマーチャントのマクベス(W. Macbeth & Sons)に勤めていたカラムは、エレノアから聞いたドランブイの歴史話に感動し、是非マクベス社で製造・販売したいと申し出た。話合いの結果、エレノアはドランブイのレシピによるハーブのミックスを調合して袋詰めしマクベス社に供給する、マクベス社は以後のエッセンスの抽出、ウイスキーとのブレンド、瓶詰を行い製品の販売を行う、エレノアはハーブの供給とブランド・ロイヤリティーとしてマクベスからドランブイ販売1本あたり2シリングを受け取る、いうことで合意がされた。

ドランブイの製造はエジンバラのユニオン・ストリートにあったマクベス社のセラーで行った。カラムの元でドランブイは、ゆっくりではあったが販売は上がり、エレノア一家の生活も安定した。1912年、理由は不明だが、この年エレノアは秘法のレシピを含むドランブイの全ての権利をカラムに売り渡し、ここでドランブイを事業化したロス家はドランブイ・ビジネスから姿を消したのである。

エジンバラのマッキノン

ジーナ・マッキノン:カラムの妻。秘密の処方によるドランブイのエッセンスの製造を担った。第二次大戦後夫カラムの死後は会社を率い、世界中を駆け巡ってドランブイのマーケティングに卓抜した力を発揮した。(Courtesy and copyright The Drambuie Liqueur Company)

エレノアからドランブイを受け取ったカラムは、ドランブイ・リキュール社(The Drambuie Liqueur Company)を設立した。1912頃のヨーロッパには戦争不可避の暗雲が立ち込め、酒類事業は不況、マクベス社も倒産寸前だったが、ドランブイ事業の将来性を確信していたカラムは債権者を説いて回りマクベス社を継承した。第一次大戦、酒税の増税、生産の制約など時代背景はドランブイ事業には厳しかったがカラムは頑張った。

戦争はドランブイにとって悪いことばかりでも無かった。ヨーロッパからリキュールが全く入ってこなくなった英国では手に入るリキュールはドランブイだけになったし、海外で戦っているスコットランド連隊の士官のディナーの定番になった。ヨーロッパに来ていたアメリカ兵にも知られるようになり、これは後にアメリカ市場でドランブイが売れる下敷きになった。

第二次大戦が終わる1945年にカラムは死去。経営は妻のジーナ(Georgina)と息子のノーマンが継承した。"スコットランドのリキュール、ハイランド、ボニー・プリンス・チャーリー由来"を訴求の中心に置き、ジーナはバグパイプ奏者を引き連れてアメリカを中心に世界中を駆け回った。まさにドランブイの顔となったのである。

ドランブイのエッセンス箱: ジーナが自宅で調整したエッセンスは小瓶に詰め、この箱に入れて工場に運んだ。箱には厳重に鍵が掛けられてれていた。この箱は実際に1970年台まで使用された。(Broadford Hotelにて撮影)

製造の中で最も重要な秘法のエッセンスの製造はジーナ が自宅で手づくりした。レシピの内容はトップ・シークレットだが、ある程度は推察されている。それによると、含まれているハーブにはLinseed(亜麻仁)、Fennel(ウイキョウ)、Angelica(アンジェリカ)、Bitter almond(苦扁桃)、Saffron(サフラン)が含まれ、ドランブイの黄色はサフランに由来するという。エッセンスは高度に濃縮されてから小瓶に入れ、木箱に詰めて鍵をかけ、工場に運ばれた。レシピは一部しかなく、これは銀行の金庫で厳重に保管された。レシピの保管とエッセンスつくりを息子のノーマンで無く自分が行った理由をジーナは後に"女性の方が男性より秘密を良く守るでしょう"と言ったという。

ラスティー・ネール

ラスティー・ネール:ドランブイを使った代表的なカクテル。アメリカ生まれのこのカクテルは一時大ヒットしドランブイと同義語になった。ウイスキーのパワーとドランブイの甘さ、ハーブが上手くマッチして霊妙な味わいである。(銀座日比谷BAR WHISKY-Sにて)

ドランブイの歴史を語る中で落とせないのがドランブイを使ったカクテル、ラスティー・ネール(The Rusty Nail)である。このドランブイとスコッチ・ウイスキーを使ったカクテルの起源は、1950年代にニューヨークの21クラブであるという説が有力であるが、他の名前で呼ばれるものも含んで色々あるようである。ただ、このカクテルがドランブイの普及に大いに力があった事は疑いない。

もっとも一般的なレシピはドランブイ1に対してスコッチウイスキーが1から3程度、オールド・ファッションド・グラスでロックにするか、ステアしてカクテル・グラスに注ぐ。ビターズは使ったり使わなかったりだが、レモンのツイストを飾るのが普通である。使うウイスキーにも多くのバリエーションがあるが、21クラブが発祥なら当時クラブのオーナーはバランタイン社のオーナーと同じハイラム・ウォーカー社だったので、ウイスキーはバランタインだった可能性が大である。たまたまウェブサイトでみたラスティー・ネールの作り方ではバランタイン・ファイネストが使われていた。

参考資料
1. The Skyeman. 24 April, 1893. The Drambuie Liqueur Company and MacLeod Hotels.
(この年次を騙った‘擬似新聞’で最近の発行である。ただし内容は真面目で正確である)
2. Drambuie, James Ross, and the ’45. Alasdair Campbell, West Highland Press, 2 January 2003
3. The Drambuie Story. Robin Nicholson, The Drambuie Liqueur Company Ltd, 2001.
4. Drambuie. Simon Difford, Class Magazine, February 2010.
5. Georgina MacKinnon.
http://www.dundiscoveredscotland.co.uk/usbiography/mac/geoginamackinnon.html
6. http://www.spectator.co.uk/scoff/3473871/the-perfect-rusty-nail.thtml
7. http://www.videojug.com/film/how-to-make-a-rusty-nail-cocktail

* ダルモア蒸溜所のシングル・モルト(Dalmore single malt)と思われる。
**ドランブイの名称の起源に関するもう一つの説はdram buidheで、buidhe(buieと発音)は‘黄色い’の意味でドランブイの色調に由来するという。