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稲富博士のスコッチノート

第58章 アーブロースとグレンカダム蒸溜所

スコットランド東海岸の都市アバディーンとダンディーは、それぞれスコットランドで第3と第4の町である。この二つの町の間の南部の地域はアンガスと呼ばれ、その海岸沿いにはアーブロース(Arbroath)、カーヌスティー(Carnoustie)、モントローズ(Montrose)等、内陸部にはブレッキン(Brechin)、フォファー(Forfar) 等のいくつかの町がある。アンガスは一つの行政区域で、議会はForfarに置かれ、最も大きな町はアーブロースである。

アーブロース

アーブロース・アビー跡:スコットランド王ウイリアム(在位1165-1214年)によって建てられた壮大な僧院。宗教改革頃から次第に荒廃した。歴史的な重要性は高く今はHistoric Scotandによって管理されている。

アーブロースについては、前回第57章でご紹介した製麦工場の訪問記の中で少し触れた。ダンディーから東北東約25kmにあり、現在の人口は約2万3千人、古くは漁業で栄え、産業革命からは亜麻と帆布の生産で知られたがこれらの産業は衰退し、現在はダンディーのベッドタウンとしての役割と公的機関、いくつかの製造業が町を支えている。いささか時代に取り残された感がしないでもないが、この町には高名なものが二つある。アーブロース・アビー(修道院)とアーブロース・スモーキーである。


アーブロース宣言―背景

僧院跡内部:かって修道士が暮らした。アーブロース宣言を起草したバーナードはこの僧院の一室で想を練った。‘ペンは剣より強し'の証となる名文である。

アーブロース・アビーの名を不朽にしたのは、何といっても1320年にこのアビーで書かれた‘アーブロース宣言( Declaration of Arbroath)'である。スコットランドは13世紀終わりから1328年にかけて独立を目指してイングランドと戦った。数多の戦いの中には、1297年にウィリアム・ウォレス(WilliamWallace)率いるスコットランド軍がイングランド軍に勝利したスターリング・ブリッジの戦いもあり、映画「ブレーブ・ハート」はこの史実に因っている。1314年、ロバート・ザ・ブルース(Robert the Bruce)がバノック・バーン(Bannockburn)でエドワード2世のイングランド軍に大勝利して独立に向けて軍事的な側面を固めた。

しかしながら、一国の独立と安全は敵軍に勝利しただけでは保障されない。独立国か否か、その統治者は誰かを決める権威は当時ローマ教皇ヨハネ22世にあり、ロバート・ザ・ブルースにとってローマへの外交努力が欠かせなかった。ヨハネ22世の前の教皇はスコットランドの独立を認めていたが、イングランドはスコットランドの独立は謀反であるとの申し立てをしており、ロバート自身もスコットランドの王権を巡って対立していたジョン・カミン(John Cumyn)を殺害した廉でローマから破門されている身であった。'アーブロース宣言‘は一方的な独立宣言ではなくイングランドのプロパガンダに対抗する外交文書であった。


このスコットランド王室共同体から教皇ヨハネ22世に宛てた文書はアーブロース僧院長バーナードが執筆、スコットランドの貴族50名が証印を付した。言語はラテン語である。

アーブロース宣言―論旨とその歴史的意味あい

アーブロース宣言:1320年に当時フランスのアヴィニオンに在ったローマ教皇宛てに出された。教皇宛てのオリジナルは失われたが、スコットランドに残されたコピーはエジンバラのNational Archiveに保存されている。写真はアーブロース・アビーにある複製。

その論旨は:スコットランドは過去からずっと独立国であったこと、イングランドのエドワード1世によって不当に攻撃されたこと、現国王のロバート・ザ・ブルースがこの惨禍からスコットランドの人民を解放したこと、スコットランドの独立はスコットランドの王ではなく人民にあたえられた権利であり従ってもし現国王のロバートがこのスコットランドの人民の独立を脅かすなら人民は他の国王を選択する、である。

この最後の主張の、王を選ぶのはローマだけではなくその国の国民である、はローマの神権に関わるので極めて際どい論議であったと思われるが、同時にこの論議の責任を国王から人民に振るという深謀も伺われる。又この部分は国の統治は人民にあるという概念のヨーロッパにおける嚆矢ともいわれている。文書は3人の使者によって当時教皇座のあったフランスのアヴィニオン*に届けられた。

アーブロース宣言の外交文書としての成果だが、教皇は宣言に留意してスコットランドとイングランドの交渉に仲介、1328年に締結されたイングランドとスコットランドの間の条約ではイングランドによるスコットランド領有の主張は排除された。


外交的な効果だけでなく、この文書は後世に政治思想上大きな影響を与えたとされている。1776年のアメリカの独立宣言を起草したジェファソンへも示唆を与えたと言はれている。アーブロース宣言の最も有名なフレーズは:

"我々が100人でも生き残るかぎりどのような条件を課せられてもイングランドの支配に屈することはない。真実、我々が戦っているのは栄光や富や名誉の為ではなく、自由、ただこの為だけであり、何人も高潔なら命を奪われようとも引き渡すことはない"
(...for, as long as but a hundred of us remain alive, never will we on any conditions be brought under English rule. It is in truth not for glory, nor riches, nor honours that we are fighting, but for freedom – for that alone, which no honest man gives up but with life itself.)

この精神は、間違いなく現在のスコットランド人のアイデンティティーに生き続けている。後年スコットランドの国民詩人ロバート・バーンズは叫んだ、「Freedom and Whisky gang thegether, Tak off your dram! (“自由とウイスキーは共に進む、諸君杯を上げよう!」と。


アーブロース・スモーキー(Arbroath Smoky)

アーブロースの港:今は漁獲は多くはないがこの港近くには数軒の家内工業のスモーク・ハウスがあり手作りで燻製をつくっている。

スコットランド人の政治的、精神的なアイデンティティーから一転して庶民的な食べ物の話になる。アーブロースといえばこれ、アーブロース・スモーキーである。このすけそう鱈の燻製は、1800年頃からこの地方でつくられているが、2004年にArbroath Smokyの呼称はEUから地理的表示として保護の対象になっている名物である。

アーブロース港の周辺には数件のスモーク・ハウスがありこの鱈の燻製を作っている。水揚げされた新鮮な鱈を一晩塩水に漬けてから頭と内臓を除き、2匹ずつ尻尾のところで縛って燻製炉の鉄格子にぶら下げる。炉の下からオーク、林檎、桜などの硬質材をゆっくり燃やし、炉の上部には覆いをかけて炉内を熱と煙を充満させる。1、2時間で鱈が飴色になったら出来上がりである。


アーブロース・スモーキーのスモーク炉:すけそう鱈は2匹を尻尾のところで結わえて炉に入れ、上に蓋をかぶせて薫煙する。鱈だけでなく鮭、鰈、鯖、帆立貝などの燻製もつくっていた。

食べ方はアーブロース・スモーキーを電子レンジでかるく暖めてから魚の腹を下にして背側から軽く押さえると中骨が身から外れるので二つに開いて骨を除き、柔らかいポーチド・エッグか溶かしバターを塗して食べる。鱈特有の旨みに塩味とスモーキーさ、ポーチド・エッグの滑らかさと食味が加わってYum,Yum!である。酒のあてにするならややしょっぱいので甘口のウイスキーが好く合う。その他、スープ、テリーヌ、クレープ包みなど応用範囲が広い。


グレンカダム(Glencadam)蒸溜所

グレンカダム蒸溜所:昔ながらの蒸溜所という趣をもった蒸溜所で小規模、コンピュータでなく手作業でウイスキーつくりをしている。

アーブロースに来たのですぐ近くのブレキン(Breckin)にあるグレンカダム蒸溜所を訪ねた。ブレキンはアーブロースの北約17マイルにある古い町で、かって二つのモルト蒸溜所があった。そのうちの一つ、ノース・ポート蒸溜所は1983年に閉鎖されその跡地はスーパー・マーケットになってしまっているが、もう一つのグレンカダム蒸溜所は現在でも操業している。創立1825年の古い蒸溜所である。蒸溜所のオーナーは何回か変わったが1957年から2000年まではバランタイン社、現ぺルノー(Pernod)が所有し操業した。現在のオーナーはアンガス・ダンディー社である。

蒸溜所は大きな墓地に隣接しているので、ここには二つのスピリッツ(精と霊)が住むという。半世紀以上大きな設備改造がされていない非常に古典的な蒸溜所で、年間生産能力はアルコール100%換算1,400KL、現在の基準では小さな蒸溜所である。


グレンカダム蒸溜所の仕込槽:仕込槽の上部カバーはステンレス・スティールだが本体は昔の鋳鉄製で、操作もオペレーターの手動である。イギリスでメートル法が施行されてから30年になるが、ここでは依然としてそれ以前の華氏温度計が使われていた。

蒸溜所は大きな墓地に隣接しているので、ここには二つのスピリッツ(精と霊)が住むという。半世紀以上大きな設備改造がされていない非常に古典的な蒸溜所で、年間生産能力はアルコール100%換算1,400KL、現在の基準では小さな蒸溜所である。

主要設備は、

○マッシュタン:鋳鉄製1基(1仕込あたり麦芽4.9トン)で9時間という長時間をかけて麦汁を採る。
○醗酵槽:スティール製6基(各24,000L)、マウリ・イーストを使い発酵は48時間以上。もろみのアルコール度数は8.5%。
○初溜釜:1基(12,000L)加熱方法は機外プレート式熱交換器。
○再溜釜:1基(12,400L)加熱器はケトル。スピリッツの度数は68%。
○樽:主としてバーボン樽。
〇ブレンド設備:最近設置された近代的なブレンド設備


モルトは大半が自社や他のブレンダーでブレンド用に使われるがシングル・モルトも出されている。草様のフレッシュ感、柑橘様、スパイスと表現されるフレーバーがありやや甘く複雑で長い後味が特徴である。

01. Keay, John and Keay, Julia, Encyclopedia of Scotland, HarperCollins; Revised edition edition, 2000
02. Ronde, Ingvar, Malt Whisky Year Book 2010, MagDig Media Limited, 1009
03. Udo, Misako, Scottish Whisky Distilleries, Black and White Publishing, 2007
04. http://en.wikipedia.org/wiki/Angus
05. http://en.wikipedia.org/wiki/Arbroath
06. http://en.wikipedia.org/wiki/File:Arbroath_Coat_of_Arms.png
07. http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_the_bruce
08. http://www.nas.gov.uk/downloads/declarationArbroath.pdf
09. http://www.alba.org.uk/timeline/declaration.html
10. http://en.wikipedia.org/wiki/Arbroath_Smokie
11. http://www.bbc.co.uk/food/arbroath_smokie
12. http://www.bbc.co.uk/food/recipes/arbroathsmokiechowde_4760
13. http://www.glencadamdistillery.co.uk/glen/distillery.htm
14. 第9章  スコットランド国家の成立:AlbaからArbroath宣言まで
15. 第30章 自由とウイスキー

*1305-1377年の間ローマ教皇はローマでなくフランスのアヴィニオンに在住していた