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稲富博士のスコッチノート

第52章 アイリッシュ・ウイスキー その2.ダブリン

リッフィー川とフォー・コーツ:ダブリン市内を東西に流れるリッフィー川と裁判所フォー・コーツのドームはダブリンの代表的な景観の1つ。フォー・コーツは1922-23年のアイルランド内戦の時大きな被害を受け付属の文書館も焼失、貴重な資料が灰燼に帰した。

アイルランドの首都ダブリン。町の始まりは9世紀頃にこの地を支配していたノース人(ヴァイキング)がリッフィー川(Liffey)の河口近くに定住したのが始まりである。市は18世紀から19世紀にかけてロンドンに次ぐ大英帝国第2の都市として栄えた。現在の人口は周辺部をいれると160万人で、全アイルランドの人口の3分の1が集中している。

今から100年よりやや以前の19世紀後半は、アイリッシュ・ウイスキーはスコッチウイスキーと拮抗する規模を誇り、当時ウイスキーの大市場であったイングランドや英植民地では品質の評価もスコッチより上位に在った。当時、スコッチ・ブレンデッド・ウイスキーはまだ勃興期にあり、シングル・モルトはスモーキー・フレーバーなどの品質の個性が強過ぎ、品質の安定性、供給にも問題があった。これに対して、大規模な蒸溜所でノン・ピーテッド・モルトに未発芽の穀類を加えて生産されたアイリッシュ・ウイスキーは飲みやすく、品質も安定していて人気が高かった。

当時のダブリンはウイスキー蒸溜の大中心地で、1886年にアルフレッド・バーナードは市内の6蒸溜所を訪問している。その中で特に名声が高かったのがダブリンのビッグ・フォーといわれたジョン・ジェームソン(John Jameson)のボウ・ストリート(Bow Street)蒸溜所、ウイリアム・ジェームソン(William Jameson)のマローボーン・レーン(Marrowbone Lane)蒸溜所、ジョン・パワーズ(John Powers)のジョンズ・レーン(John's Lane)蒸溜所、ジョージ・ロー(George Roe)のトーマス・ストリート(Thomas Street)蒸溜所であった。前章で触れたが、20世紀になるとアイリッシュ・ウイスキーは衰退し、ダブリンの蒸溜所は最後まで残っていたボウ・ストリートが1971年に、ジョンズ・レーンも1974年には閉鎖されてしまい現在は残っていない。ダブリン蒸溜所の栄光の跡を追ってみた。


トーマス・ストリート蒸溜所 (Roe Family)

聖パトリックの塔:この塔はよくギネスのパンフレットに使われているが、元はトーマス・ストリート蒸溜所の風車塔であった。高さ45m、頭頂部にアイルランドの守護聖人聖パトリックの像がある。

ダブリン市内のウイスキー蒸溜所は市内西部に集中していた。現在でも操業しているギネスのビール工場の近くにトーマス・ストリート蒸溜所とジョンズ・レーン蒸溜所、リッフィー川を挟んで北側にボウ・ストリート蒸溜所である。

市の中心部から西へ徒歩でも20分も行くと、右側、丁度ギネスの大ビール工場の反対側にダブリンでも指折りのランド・マークである聖パトリックの塔が見えてくる。この塔はアルフレッド・バーナードが訪問したときには蒸溜所の真ん中に立っていた。トーマス・ストリート蒸溜所は1757年にピーター・ロー(Peter Roe)がここにあった小さな蒸溜所を買い取ったときに始まるが、当時はこの塔にあった風車が蒸溜所で必要な動力をすべて供給したという。風車は無くなり、今は塔だけが残っている。

蒸溜所は19世紀に大発展し、バーナードの訪問時には、ダブリンで最大級の蒸溜所になっていた。石臼式粉砕機8基、仕込槽3基、180klの発酵槽16 基、蒸溜釜は8基でその内初溜釜の容量は90kl、2回目の蒸溜を行うローワイン・スティル(Low wine still)と3回目の蒸溜を行うスピリッツ・スティルは各54kl、年間生産量は9,000klと巨大な規模であった。


クライスト・チャーチ大聖堂:ダブリン最古の教会である。11世紀にバイキングがこの地に建てた教会が始まりで、多くの貴重な歴史遺産が保存されている。

蒸溜所は歴代Roe家が所有し経営したが、19世紀中頃のオーナーのHenry Roeは篤志家で、荒廃していた近隣のクライスト・チャーチ大聖堂の修復に22万ポンド、現在の価値にして10億円以上を寄進している。

蒸溜所はイングランド、アメリカ、カナダへの輸出で盛業であったが、1880年以降スコッチ・ブレンデッド・ウイスキーとの競合に後れを取り、経営難に陥る。ダブリン市内にあったWilliam Jameson、Dublin Whiskey Distillery Companyとの経営統合で生き残りを図ったが成功せず1926年には閉鎖された。バーナードによれば品質は佳良との評価だが、パワーズやジェームソンほどの名声は無かったようである。


ジョンズ・レーン蒸溜所 (John Powers)

旧ジョンズ・レーン蒸溜所のポット・スティル:最盛期には6基のポットスティルがあった。その内3基が残っていて、かつての蒸溜所の威容を今に伝えるが、風雨に晒される姿はやや奇異ではある。

ジョン・パワーズはアイリッシュ・ウイスキーの有名銘柄で、地元アイルランドで人気が高い。そのパワーズを造っていたのがジョンズ・レーン蒸溜所(John's Lane Distillery)である。

ジョンズ・レーン蒸溜所の跡を探すのには難儀した。クライスト・チャーチの近くとは分かっていたが、通りのJohn's Laneは地図で見当たらず、さ迷った末にクライスト・チャーチに入って年配の教会関係者に聞いてみたが、さあ知らないという。諦めかけたのだが、持っていたブライン・タウンゼント著の「The Lost Distilleries of Ireland」に掲載されている写真を見せたところ、西へ2ブロック行ったSt. Johns Churchの裏側だろうという。John's Lane Westという小さな通りを100mほど入ると頑丈な鉄柵で囲われたいかにも工場跡らしい敷地があり、その奥に 青錆びたポット・スティルが見えた。ジョンズ・レーン蒸溜所跡である。 裏に回って駐車場のゲートで来意を告げ、場内に入れてもらった。


旧ジョンズ・レーン蒸溜所の原料貯蔵庫と製麦工場跡:バーナードによるとこの貯蔵庫には常時3,000トンの穀類が貯蔵されていたという。現在はアート・デザイン・カレッジが使用している。

中央の広場になっているところには蒸溜室があったと思われるが、今は建物は無く、野晒しのポット・スティルが3基、押し寄せる樹木の中に悄然として立っていた。訪問した日は夏の好天であったが、冬の陰鬱な夕刻であれば蒸溜所に立ち尽くすウイスキーの亡霊のように見え、身の毛がよだつに違いない。

再び1886年のバーナードの記録に戻る。当時この蒸溜所には原料貯蔵庫と麦芽工場があり、麦芽、大麦、それに少量の小麦とオーツが配合された原料の使用量が1日あたり100トン以上、直径約10mの仕込槽が2基、173klの発酵槽が8基、114klの初溜釜が2基、90klのフェインツ・スティルが3 基あり、アイリッシュ・ウイスキー独特の3回蒸溜を行っていたという。年間の生産量は4,000kl、数年分の原酒を貯蔵していた。

この蒸溜所の品質の評価は高く、バーナードは、“昼食時に出された長期熟成のウイスキーは美味で、これまでテイストしたどれよりも素晴らしい。フレーバーはアイリッシュ・ウイスキーの古酒の香気と同じように完璧である"と絶賛している。


パワー初代のジェームスが表通りで経営していた旅籠屋の裏に小さな蒸溜所を建てたのは18世紀終わり頃、息子ジョンの時代に蒸溜所は大発展し、19世紀後半には上述のような立派な蒸溜所に成長した。アイリッシュ・ウイスキーにとって苛烈な20世紀前半に多くの蒸溜所が閉鎖されたがパワーズはダブリンで 1974まで生き残った。1975年、前章で述べたミドルトン蒸溜所の完成とともに生産は移転した。ジョンズ・レーン蒸溜所の跡地と建物は、現在、国立アート・デザイン・カレッジ(National College of Art and Design)に使われている。

ボウ・ストリート蒸溜所(John Jameson)

ボウ・ストリート蒸溜所跡:蒸溜所の閉鎖後、建物の大半は住宅やオフィスに改造されたが、一部はジェームソン博物館として公開されている。

現在、アイリッシュ・ウイスキーのマーケット・リーダーであるジェームソンはダブリンが発祥地である。所在地は、トーマス・ストリート蒸溜所やジョンズ・レーン蒸溜所の北方、東西に流れるリッフィー川のすぐ北側、スミスフィールド(Smithfield)の東側の一角で、Bow Streetに面している。スミスフィールドは17世紀から市場だったところである。

スコットランド生まれだったジョン・ジェームソンが、この地にあった小さな蒸溜所で働き、その後に買取ったのは18世紀から19世紀にかけての頃らしいが、1805年には蒸溜所を拡張し1810年には社名をJohn Jameson & Sonとしている。バーナードが訪問した時には蒸溜所は絶頂期にあり、その主要設備は、直径10.8m、深さ2.4mの仕込槽が2基、160klの発酵槽が10基、100klの初溜釜が2基、65klと58klの再溜釜が各1基であった。蒸溜方法は‘Wash still(初溜釜)で蒸溜されたLow wine(初溜液)はLow wine still(再溜釜)で再度蒸溜され、Feints(余溜液)とSpirit(本溜液)に分けられる'とあるので、2回蒸溜だった可能性が高い。生産能力は5-6000kl程度、大型蒸溜所であったと推定される。 Bow Street蒸溜所は、品質に対する高い評価で1971年まで生き残り、1975年からミドルトンに生産を移した。


ドック蒸溜所

グランド・カナール:この運河は、東はダブリンのリッフィー川の河口から西は大西洋側に流れるシャノン(Shannon)川にいたる。1757年に着工し難工事の末1804年にオープンした。

ダブリンでどうしても訪ねたい蒸溜所跡があった。ドック蒸溜所(Dock Distillery)である。理由は、この蒸溜所であのエニアス・カフェー(Aeneas Coffey)がカフェー・スティル、あるいはパテント・スティルといわれる連続式蒸溜機を発明した、とされているからである。

この蒸溜所に関する情報は極端に少なく、所在地はグランド・カナール・ストリートであったという事と、あまり成功した蒸溜所ではなく1830年代に閉鎖され、土地は鉄道会社に売られたというくらいである。グランド・カナール(大運河)がリッフィー川に合流する辺りはDock(港湾)地域で、グランド・カナール・ストリートはそのすぐ近くである。


グランド・カナール・ストリートのDock蒸溜所跡:再開発が進み、近代産業の代表ともいえるブリティッシュ・テレコムやコンサルタント会社のアクセンチュアのビルが建っていた。

まずは図書館に行って1830頃のダブリンの市街図でグランド・カナール・ストリート周辺を見て、どこかにDock Distilleryと記されていないかを調べ、現在の市街図と照合することにした。閲覧した1837年の測量図にはグランド・カナール・ストリート周辺に蒸溜所の記載はなく、鉄道の引き込み線と車両工場と記載されていたので、多分ここがDock Distilleryのあった所と思われた。現地に行ってみると、その場所はすっかり再開発が進み、近代ビルの立ち並ぶビジネス街になっていた。

カフェー・スティルは蒸溜酒生産上最大の技術革新で、世界の蒸溜酒造りを一変させた。フランス生まれ、ダブリンのトリニティー・カレッジで教育を受けたカフェーは高い才能と強い意思をもった人物であった。酒税の検察官になり、厳格に職務を実行した。ある時の密造業者との衝突では、銃剣による貫通傷と頭部を陥没する重症を受けあわや命を落としかけたこともある。検察総長にまで出世したが1824年に辞職し、ダブリンのドック地帯にあったDock蒸溜所を経営、カフェー・スティルを発明している。

カフェーは蒸溜所の経営より、カフェー・スティルのメーカーの道を選んだが晩年は不詳で、没年や墓所も不明である。1922年のアイルランド内戦の時にフォー・コーツで起きた爆発で、歴史的な公文書が焼失してしまったためである。


1. Alfred Barnard, The Whisky Distilleries of the United Kingdom, Birlinn Limited 2008.
2. Brian Townsend, The lost distilleries of Ireland, Neil Wilson Publishing, 1997.
3. Christ Church Cathedral Dublin
4. The Ireland Whiskey Trail
5. The Whisky Portal
6. Grand Canal (Ireland) :Wikipedia-The Free Encyclopedia