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稲富博士のスコッチノート

第17章 スコットランドの樽の歴史

スコットランドでモルトから蒸溜されたモルト・スピリッツや、モルトに発芽していない穀類を加えて醗酵・蒸溜したグレーン・スピリッツがスコッチ・ウイスキーになるにはオークの樽で最低3年間熟成させる事が法的に義務付けられている。この規制には、スコッチ・ウイスキーの定義を厳格にして品質を保持し、消費者の信頼をうる目的があるが、事実蒸溜したてのスピリッツを樽で熟成させると香気高く、まろやかで美味しいウイスキーに大変身する。一般的に、熟成後のブレンドは別にして、「ウイスキーの品質の半分は蒸溜までに、残り半分は貯蔵で決る」と言われている程、樽による貯蔵・熟成は大切な工程である。「熟成の前には樽ありき」なので、今回は樽の歴史を振り返る。

樽とは

オックスフォード英語辞典によると樽は、「円筒形をした木製の容器で、一般的には中央部が膨らんでおり、寸法は巾より長さが大きい。曲げた木片を輪で固定し、両端に平面の鏡が固定されている」、となっている。 この定義から読み取れる樽の特徴は、1)多くのステーブ(樽板)から構成されている事、 2)ステーブを曲げる曲げ木の技術が使われていること、 3)ステーブは中央部が広く両端は先細に、断面も台形になるように削られる、4)この結果ステーブを曲げて樽を組んだ時に両端より中央部の直径が大きい形状が得られること、ステーブどうしが同一平面で接触すること、輪をきつく締めることが出来るので、ステーブが圧着されて液体を入れても漏れない、 5)樽の構造は縦、横にアーチが形成されているので非常に堅牢になる、 6)樽の中央部と地面との接点は1点なので容易に転がすことが出来る、 7)比較的軽量である、である。樽が発明される以前の土器の入れ物より堅牢、軽量、移動性で圧倒的に優れていて、樽の発明は人類最大の容器革新であった。

ローマ人がもたらした樽

スコットランド・ニューステッドのローマの遺跡から出土した桶(紀元1-2世紀):桶や樽造りの技術はスコットランドへ進攻してきたローマ人がもたらした。(National Museum of Scotland)

日本における樽の権威者、加藤定彦氏*によると「樽は紀元前1000年に古代バビロンやエジプトでつくられた」とあり非常に古い歴史をもっているが、ヨーロッパでの記録は紀元1世紀のローマの歴史家が「アルプス渓谷で発明された」としているのが最も古い。ローマ人は映画などでお馴染みのチャリオット(2輪馬車)の車輪を一本の木から曲げ木で作っており、木を水蒸気で加熱して柔らかくして根気良く曲げて行く技術を習得していた。スコットランドでの樽の歴史もローマ時代に遡る。アグリコーラ将軍に率いられたローマ軍がスコットランドへ進攻したのは紀元1世紀で、スコットランド南部、メルローズの近くのニューステッド(Newstead)に砦を築いた。この遺跡から発掘された木製のバケツは曲げ木を輪で締めてあり、樽と同じ技術で作られている。バランタイン社のあるダンバートン州のローマ人の遺跡からは、曲げ加工され鏡をはめ込むアリ溝が切られたステ-ブ14本が出土しており,樽はローマ人がもたらしたのは確実と思われる。

熟成の始まり

ハイランドにおける密造風景:この絵のなかに樽が二つ見える。右側少女がもたれている樽は蒸溜されたウイスキーを冷却する桶、左から二人目の女性が腋に抱えている小樽はウイスキーを入れて町へ売りに行くのに使われた。

スコットランドでの密造は19世紀に入っても続いていた。この密造の風景を描いた絵画として最も有名なものは、ランヅィア(Landseer)の“ハイランドの密造蒸溜釜”である。1829年のこの絵は当時ハイランドで広く行なわれていた密造風景やハイランダ-の生活が活き活きと描いているが、画中に実は樽が描かれていて当時から樽はウイスキーつくりに欠かせなかったことが分かる。二つの樽の一つ、女性が腋に抱えている小さな樽は蒸溜されたウイスキーを入れたもので、後に都市部に運んで密売するのに使われた。飲まれるまで樽に入っている時間は短かったが、その間ウイスキーは熟成して美味しくなっていたのである。

中世の樽作り

グラスゴー製樽組合の規約書: ギルドが廃止された後もクーパーの団体は存続した。これは1880年に制定された規約書の表紙で、中央の紋章には樽作りの道具とモットーの「兄弟のように愛せよ」と「木は木を円く円くつなぐ」が書かれている。

金属やプラスティック等が広く使われるようになったのは20世紀に入ってからでそれ以前は木製の樽やバケツは非常に重要な入れ物であった。中世時代にこの樽作りを担ったのはクーパーといわれる樽職人である。

中世には多くのギルドが生まれた。17世紀始めにグラスゴーで正式に認可されたギルドは、Cooper(樽屋)以外にはTaylor(仕立屋)、Maltster(製麦屋)、CordinerとShoemaker(靴屋)、Weaver(織屋)、Hammerman(鍛冶金物師)、Baker(パン屋),Skinner(毛皮屋),Wright(大工),Fisher(漁師)、Mason(石工)、Bonnet-maker(帽子屋)、Dyer(染師),Surgeon(外科医)があり当時の都市生活を支えていた。ギルドではマスターの元で厳しい世襲制度や徒弟制度がひかれ新入りがギルドのメンバーになるには最低7年もの修行が要求された。ギルド制は継承者や技術の育成、製品規格や品質の維持、メンバー間での生活互助、社会活動も行なっていたが、基本的には既得権を守り、外者が業界を侵害するのを防止する排他的な組織であったので、スコットランドでは1846年に廃止された。以後樽つくりは樽専門会社、ビール会社やウイスキー会社が行なうことになったのだが、ギルドの伝統を受けて樽職人の結束は固くCooperの労働組合は長年最強であった。

樽の用途

塩漬け鰊を入れた樽:この塩漬け鰊をいれた樽にはオーク以外の松や樅等のソフト・ウッドも使われた。かって鰊はスコットランドの重要な輸出品であった。(Speyside Cooperage展示品)

農業に利用された樽:この樽は19世紀後半-20世紀前半にスコットランドの農場で薬剤や肥料の散布に使用された。(The Museum of Scottish Country Life)

19世紀終りまで樽は重要な容器で、保存や輸送には欠かせなかった。ウイスキー、ラム、ワイン,ビールなどの酒類の他、オイル、ペイント、タール、油脂、バター、鰊や鮭の塩付け、穀類、タバコ、金属品等に広く利用された。なかでも酒類用の樽は“タイト・バレル”と言われ、漏れないオークを使った高級品であった。

熟成を目的としてウイスキーの貯蔵が始まったのは19世紀後半で、まずヨーロッパから輸入されてきたワインやシェリーの空き樽が使われ、次いで50年ほど前からはバーボンの空き樽が大量に使用されるようになった。次に述べるがこの時代までにスコットランドのオークはほとんど枯渇しており、地元の樽で作ったウイスキー樽は作られなかったのである。

スコットランドのオーク

グラスゴー大学のオークの樹:市のシンボルだけあって市内にはオークの樹が多い。大学正門から通りを挟んで北側の構内にも堂々としたセシル・オークの樹がある。

ピート湿原が広がる荒涼とした風景はスコットランドを代表する風景の一つであるが紀元数千年までは広い範囲が鬱蒼とした森林であった。特にローランド地方や、ハイランドでも海岸部はオークの森林に被われ、オークはスコットランドを代表する樹木であった。これらの森林がほとんど消滅した理由は気象変化もあったが何と言っても人間の活動による。森林は草地への変換のために伐採されたが、オークは船の建造、建築用材、家具、皮なめし用のタンニンの原料、燃料として非常に有用であったので18世紀頃までに大量に伐採されてしまった。しかしながら、資源として利用するには不充分でも今でもオークはスコットランドでよく見かける樹木である。現在私がいるグラスゴー大学の構内でもよく見られるし、グラスゴー市のシンボル・ツリーでもある。

スコットランドのオークはセシル・オーク(Sessile Oak: Quercus petrae)で、フランスのコニャックの熟成に使われるオークと同種、イングランドやスペインのコモン・オーク(Common Oak: Quercus robur)とは種類が異なっている。スコットランド産のオークで作った樽で熟成したスコッチ・ウイスキーはどんな味がするか出来れば飲んでみたいものである。(了)

*加藤定彦著:「樽とオークに魅せられて」 TBSブリタニカ、2000年 (樽とオークの全書。樽人生一筋の著者によるユニークな好著)