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稲富博士のスコッチノート

第81章 動力-2

1.ロングモーン蒸溜所の蒸気エンジン

19世紀にスコッチ・ウイスキーの産業化が始まり、既存の蒸溜所で水車が導入され、又それまで粉を挽いていた水車小屋の相当数が蒸溜所に改造された。蒸気エンジンが発明される以前は、どのような製造業であれ機械化には自然の水力が利用できるという条件は必須であった。“多くのモルト蒸溜所の名称が‘グレン(Glen)何々’であるのは、蒸溜所が渓谷(Glen)沿いに建てられたから‘という説明を聞いたことがある。

水車は、燃料費も不要で経済的であるが、渇水時には利用できないし能力に限界があるなどの不利もあり、19世紀後半から多くが蒸気エンジンに取って変わられた。

産業革命

18世紀終わり頃から英国で始まった産業革命は、それまでの農業や漁業などの第一次産業が主で製造業も手工業だった時代から、機械化による量産へと大変革をもたらした。製造業の変化に留まらず、産業革命は資本主義の確立、産業構造や国際貿易、輸送体系や人々の生活様式にも革命的な変化をもたらした。

機械化の動力として最初に使われたのは水車である。産業革命の先端を走った繊維工場で使われた水車は、前回述べたハイランドの粉挽小屋や蒸溜所で使われた小型のものでなく、百馬力を超える出力の大型水車が使われた。現在のディーンストン蒸溜所は、元は18世紀に建設された紡績工場で、今は残っていないが動力は4基の大型水車であった(本ページの第75章参照)。現存する大型の水車は、ユネスコの世界遺産に指定されているグラスゴー郊外のニュー・ラナーク紡績工場跡に見ることができる。

水車による生産の機械化で始まった産業革命であるが、それを大きく推し進めたのが蒸気エンジンの発明であった。

ジェームズ・ワット

2.ジェームズ・ワット像:1736年生―1819年没。グラスゴー近郊のグリーノックで、船大工や船主をしていた父親と名門家の出の母親の間に生まれた。幼少の時から機械いじりが大好きだったが、ラテン語やギリシャ語には全く興味がなかったという。(National Museum of Scotlandにて撮影)

蒸気エンジンというとこの人を抜きには語れない。蒸気エンジンの発明者ではないが、その画期的な改良やエンジン回りの種々の発明、動力の概念を実用的な単位に発展させたなど大きな功績を残した。

ワットが改良する以前の蒸気エンジン(発明者の名前をとってニューコメン・エンジンと言われた)は、釜で沸かした水蒸気をシリンダーの中に入れ、そこへ水をスプレーして水蒸気を凝縮させて発生する陰圧と、シリンダーの外側の大気圧の差圧でピストンを動かすいわゆる大気圧エンジンであった。大気圧で動くので出力は小さく、また1作動毎にシリンダー内に冷水を噴霧するためシリンダーが冷え、熱効率が極めて低かった。

ワットによる改良と功績

3.ボールトンーワット蒸気エンジン:エジンバラの国立博物館に展示されているこの蒸気エンジンは1786年製造。ロンドンのビール工場で当初は揚水用のポンプの動力に、1796年に出力を15馬力に増強してからは麦芽の粉砕も行った。1884年迄約100年間使われた。(写真はNational Museum of ScotlandのWebsiteより)

1763年、ワットがグラスゴー大学の修理工をしていた時にワットは大学にあったニューコメン・エンジンの修理を依頼された。機械的にも不備が多く、修理しても満足に動かなかったが、何より熱効率の低さが問題であった。ワットにもすぐに解決策があった訳ではなく2年間辛苦したが、1765年に水蒸気をシリンダー内でなく、別個に外部コンデンサーを設けて凝縮させるという画期的な着想を得たのである。これで熱効率が倍以上に改善された。

ワットがイングランドの機械工作メーカーのボールトン(Matthew Boulton)とパートナーを組んでボールトンーワットを設立したのは1775年である。このパートナーシップは大成功と言われ、ボールトンはワットのもつ特許や才能を、ワットは自分の発明を工業化する資金、製作や販売に関する裏づけを得た。以後、ボールトン―ワット・エンジンは市場をほぼ独占、25年間で500台以上の蒸気機関を製造販売するのである。

ワットの功績は、外部コンデンサーを設けて熱効率を画期的に改善しただけではない。蒸気エンジンが、ピストンの往復運動だけしか行えなかった時は, 用途は同じく往復運動をするポンプ等に限られていたが、ワットがこの往復運動の力を回転運動へ変換する歯車装置を開発、蒸気エンジンの用途が紡績、製粉、炭鉱やその他の製造業に画期的に広がり、産業革命の原動力になった。他にもピストンの両側に蒸気を入れるダブル・アクション・エンジンの発明やエンジンの出力単位、‘馬力’の実用化など多くの功績がある。

この‘馬力’だが、ワットはなかなか商才にも富んでいた。自分の蒸気エンジンを顧客に売り込む際に、エンジンが馬何頭分の仕事をするか、例えば馬20頭分なら20馬力と説明し、年間に馬20頭分に掛かる費用と蒸気エンジンの費用を比較して節約分の三分の一を25年間コミッションとして受け取ったという。晩年のワットは裕福だった。尚、エネルギーの国際単位のワットはジェームズ・ワットに因む。

最初に蒸気エンジン使ったウイスキー蒸溜所

4.最初にスコットランドへ導入されたボールトンーワット・エンジンは、1786年にケネットパンズ蒸溜所に設置された。エンジンの発注から納入までのジョン・スティーンとボールトンーワット間で交わされた書簡が残っていてそのいきさつを知ることが出来る。
(Picture Credit to Kennetpans Trust)

産業革命の波は、保守的なウイスキー業界にも押し寄せた。水車の時代から蒸気エンジンの時代への変化を最初に取り入れた進取の気性に富んだウイスキー蒸溜所はどこだったか。ローランド、アロア近くにあったケネットパンズ蒸溜所である。この蒸溜所については以前に本稿の第40章で少し触れた。

ケネットパンズ蒸溜所とすぐ近隣のキルベイギー(Kilbagie) 蒸溜所は、ローランドのウイスキー・メーカーとして有名なスティーン(Stein)・ファミリーが建設し経営した。スティーン・ファミリーは、同じくローランドの蒸溜業者でありブレンダーだったヘイグ(Haig)と姻戚関係にあったし、連続式蒸溜機を発明したロバート・スティーンも輩出している。アイリッシュ・ウイスキーのジョン・ジェームソン(John Jameson)は、ケネットパンズ蒸溜所で働いていて、後にヘイグの娘と結婚、スティーンが所有していたダブリンのボウ・ストリート(Bow Street)蒸溜所のマネージャーからオーナーになっている。この華麗なウイスキー一族は、グレーン・ウイスキーとブレンデッド・ウイスキーという近代的なウイスキー産業の確立に不滅の貢献をしたと言える。

ロングモーン(Longmorn) 蒸溜所

5.現在のロングモーン蒸溜所:1893年創立。昨年増設工事が完了し、初溜釜、再溜釜各4基を持ち、年産能力約4,000klの最新鋭大規模蒸溜所に生まれ代わった

19世紀後半のウイスキー・ブーム時に多くの新蒸溜所がオープンし、その多くが蒸気エンジンを導入した。1885年から1886年にかけて当時の大ブリテン連合王国の全てのウイスキー蒸溜所を訪問したアルフレッド・バーナードの記述を見ると、一部の蒸溜所はまだ水車のみ、一部は水車と蒸気エンジンの併用があるが、モルト、グレーンともほとんどの蒸溜所は蒸気エンジンを動力に使っていたことが分かる。ウイスキーの販売と生産が拡大するなか、水車にくらべて出力が大きく、川の水量に左右されない蒸気エンジンへの切り替えが進んだと思われる。

通常、モルト蒸溜所の蒸気エンジンは一台だけだったが、グレーン蒸溜所には5台、10台もの蒸気エンジンが置かれていたので、スコッチの蒸溜所全体では何百台もの蒸気エンジンが使われていたのだが、現存しているものは少ない。その一台がロングモーン蒸溜所のロビーに展示されている。ロングモーンは、かねてからスコッチのブレンダー達の間で品質への評価が高いモルトであり、バランタインやシーバスのブレンドを構成する中核モルトである。バランタインのマスター・ブレンダー、サンディー・ヒスロップ氏の大のお気に入りでもある。

1&6.ロングモーン蒸溜所の蒸気エンジン:1890年代製で40馬力。蒸溜所にあった大型水車のスタンドバイ機として1979年まで使われた)

その他、蒸気エンジンが残されている蒸溜所にはグレンモランジー、アウスロスク(Ausroisk)、オルトモア(Aultmore)がある。

燃料

7.スコットランドの炭鉱地帯:黒く塗られたところが炭鉱地帯。産業革命以降、炭鉱の集中していた中央ローランド・ベルトで製鉄、機械、造船、蒸気機関車、繊維等の製造業が勃興した。

蒸気エンジンを動かすには燃料が要るが、スコットランドで産業革命が進んだのは炭鉱に恵まれたことである。スコットランドの主要炭鉱地帯は、ローランドの西海岸エアーからグラスゴーの幅で東北に向けて東側はエジンバラ東側のイースト・ロジアンからファイフの間に伸びている。ハイランドにはキャンベルタウンとブローラには小さな炭鉱があり、その他各所に極小さな石炭場があったようで、蒸溜所ではこれらで採れる石炭を燃料として使用したと思われるが史実は良く分からない。

19世紀中頃以降、モルト蒸溜所が多くあったスペイサイド、アバディーン州やインバネス周辺へどの炭鉱の石炭がどのようにして運ばれたか。ハイランド地方の鉄道網が整備されたのは19世紀中頃以降で、それまではローランドやファイフの炭鉱から船でアバディーン、モレー湾岸の港やインバネスへ運ばれたと推察している。なかでも、大型の炭鉱が多く、19世紀にはUK国内はもとより、ヨーロッパや北欧にも石炭を輸出していたファイフのいくつかの炭鉱はハイランドへ近く、ここから供給された可能性が高い。ハイランドの港から内陸部の蒸溜所へは馬車で運ばれた。

8.ファイフ、フランセス(Frances)炭鉱の滑車:フランセス炭鉱はフォース湾を挟んでエジンバラの北側の海岸沿いにあった。写真は坑(シャフト)の巻き上げ滑車で、シャフトの深さは400m以上、横坑はフォース湾の海底に伸びていた。1988年に閉鎖された。

かつて、スコットランドには250以上の炭鉱があり、最盛時だった1950年代には出炭量は年間2000万トン、8万人以上が働いたが、1988年には全て閉鎖された。アイアン・レディーと言われたサッチャー首相は、競争力が無く国税を浪費する国有の石炭産業の存続を許さなかった。残っている施設は少ないが、このファイフにあったフランセス炭鉱立坑の巻き上げ滑車は、産業遺産として残っていて往事を忍ばせる。尚、エジンバラの郊外南方のLady Victoria Collieryでは地上設備のほぼ全てが博物館(National Mining Museum Scotland)として残され、一見の価値がある。

参考資料
1.Scottish Collieries. The Royal Commission on the Ancient and Historical Monument of Scotland (2006)
2.http://www.nms.ac.uk/highlights/objects_in_focus/boulton_and_watt_engine.aspx
3.http://en.wikipedia.org/wiki/James_Watt_(inventor)
4.http://www.kennetpans.info/index.php
5.http://www.scottishminingmuseum.com/