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稲富博士のスコッチノート

第71章 ニール・ガウ

1.ニール・ガウと彼のフィドル:この絵が描かれたのは1805年、ニールが78歳の時である。当時のフィドルは顎当てがなく、中心より右に顎を置いた構え方も現在と異なる。

「キーパー・オブ・ザ・クエイヒ」(第69章参照)のディナー会場となったブレアー城のボール・ルームの壁に、一人の男の絵がかかっている。スコットランドの有名な肖像画家、ヘンリー・レーバーン(Henry Raeburn)によるこの絵の主は、濃紺のベストと詰襟のジャケットを着て太い足をタータンのズボンで包み、大きな頭の下にフィドル(バイオリン)を支えて右手に弓をもっている。この絵の男がスコットランドの伝説的フィドラー、ニール・ガウ(Niel Gow)である。以下ニールと呼ぶが、彼が長年住み、活躍した町ダンケルドに彼の足跡を追った。

ダンケルド(Dunkeld)

2.ダンケルド大聖堂:建物の向こう側半分は廃墟で、古い部分は13世紀につくられた。こちら側半分は地区教会として今も使われている。

ニール・ガウは、スコットランドで最長の川のテイ川(River Tay、188km)河畔の町ダンケルド(Dunkeld)に暮らし、この地方を中心に活躍した。テイ川は、中部ハイランドの西方に発しパース(Perth)の東で北海に注ぐ。そのパースから20kmほど上流の河畔の人口1200人ほどの小さな町がダンケルド(Dunkeld)である。町は9世紀に聖コロンバ(St. Columba)が僧院を建て、アルバ(Alba)王国のケネスI世(Kenneth I)が首都を置いた時に始まる。

ガウは卓越したフィドルの演奏家であっただけでなく、作曲家として多くのフィドル曲を残している。彼の90曲近くのフィドル曲(その約4分の1は自作でないといわれているが)の多くが今でもスコッティッシュ・フィドル音楽の定番として人々に親しまれているし、エピソードが伝えるガウの人柄は非常に親しみが持てる。多くの世界中のケルティック・フィドルの演奏家や愛好家が'ガウ詣'にダンケルドにやってくるのはこの故である。

フィドラーズ・コッテージ

3.フィドラーズ・コッテージの銘板:この家に住んだニール・ガウと彼の二人の子息の生没年が刻まれている。銘板の下部には"ガウの弓がフィドルを奏でる魔術には、神話に出てくるどんな魔法使いの杖の一振りも敵わない"とある。

ニールが生まれたのは1727年。生まれたのはダンケルドではなく4マイルほど西のストラスブラーン(Strathbraan)であったが、幼少の時にダンケルドのすぐ近くのインバー(Inver)に移りそこで一生を送っている。父親は、その時代ハイランド人がよく着用していたプレイド(Plaid=幅広・長尺の肩掛け)の機織職人で、インバーに移ったのは、市が立つダンケルドに近く、作ったプレイドを売るのに都合が良かったからである。

ダンケルドからインバーまでは徒歩で20分ほど。コッテージは村の人に聞いてすぐ分かった。古い時代の低い平屋建ての一軒家で、300年以上経っているが今でも住まわれている。建物の石壁に付けられたガウの銘板は生垣の奥にあったが、よく見えるようによく茂った一角がカットしてあった。

ニール・ガウがどのようにしてフィドラーになったかは定かでない。少年ニールは、始めはフィドルを独学で覚えたようであるが、13歳でプロの手ほどきを受けると上達著しく、18歳で出たコンペティションでは並み居る名高いフィドラーを押しのけて優勝した。競った他のフィドラー達の中にはニールの先生もふくまれていたという。

アソール公爵のお抱え楽師

4.第4代アソール公爵:1755-1830.スコットランドの有力貴族で、いくつもの要職を務める。英貴族院議員。ニールのよきパトロンであった。http://en.wikipedia.org/wiki/John_Murray,_4th_Duke_of_Atholl

ニールの腕前と独自の演奏スタイルはほどなくスコットランド中に知れ渡り、多くのイベントに招かれるようになる。招かれた会にはアソール城での宴席やダンスの会もあり、やがてアソール家が年間5ポンド(現在の価値に換算すると約110万円)の契約料を払ってパトロンになった。長命だったニール(1727-1807)は第2代から第4代まで3代のアソール公爵に仕えたが、特に第4代公爵とは仲が良かった。音楽の腕前に加えて、彼の飾り気がなく正直で巧まぬユーモアは、公爵との間に領主と領民という隔てを超えて友人に近い関係を構築していたようで、公爵も自分の領民にスコットランド第一のフィドラーがいることは自慢だったに違いない。ニールの人柄を語るエピソードを紹介する。

* ある日、公爵とニールはテイ川に船を出し、鮭釣りをした。始めてほどなく公爵の竿に見事な鮭が掛かり公爵はご満悦だったが、ニールに"お前がこんな鮭を釣ったらどうする"と聞いたそうだ。ニールは"私なら迷わず公爵に進呈します"と答え、ニールは含意を汲んだ公爵から鮭を進呈された。

* ある時ニールはエジンバラである楽器屋に立ち寄った。フィドルの新しい弓を買いたいと思ったのである。ニールを上から下までまじまじと見た店主は、まあ流しのフィドラーと思い一番安ものの弓を出した。ニールは店で一番上等の弓を所望し、弓の試奏と彼の最近の作曲の楽譜が店にあるかチェックするためにその楽譜を出すよう店主に告げた。どうせ下手なフィドラーに違いないと思った店主は、"この弓は高いが買うか、あるいはこの曲をちゃんと弾けたら弓は無償でやるがどうだ"と言ったのでニールは"OK、乗りだ"と言い、曲を完璧に弾いた。たまげた店主に、"この曲を見たことがあるのか"、と問われたニールは、"まあ作曲中に50回くらいはね"と答えたという。

* ニールが晩年を迎え老いの兆しが出始めたころ、彼をよく知るパースの貴族や上流階級はニールを後世に伝える恒久的なものを残そうとポート・レートの制作をレーバーンに委嘱した。レーバーンは当時屈指の肖像画家で、多くの著名人を描いている。そのレーバーンがニールを描いている間、ポーズをとっているニールの横に付き添って色々話しかけ、ニールを上機嫌にしていたのは領主のアソール公爵であった。当日の予定時間が終わると二人は腕を組んでスタジオを出ていったという。

フィドラーのオーク

5.フィドラーズ・オーク:老木の下にはずいぶん朽ちているがフィドルの胴形を模ったベンチがあり、"ニール・ガウのゴーストと一緒にフィドラーの木の下に座ってみてください"とあった。

ニールの住んでいたインバーの村近くのテイ川河畔に一本の古いオークの木が立っている。今では節くれ何本かの枝も折れ曲がった相当な老木であるが、ニールの在世時は強勢を誇った堂々たる大木だったに違いない。ニールはよくこのオークの下で曲想の練りフィドルを奏でたが、この時テイ川を挟んだ反対側の岸辺ではアソール公爵が聞き入っていたそうある。ニールの調べはテイ川の川面によく響いた。

ニールの代表作の一つに"さらばウイスキーよ(Farewell to whisky)"がある。1799年、スコットランドはひどい凶作でウイスキーの蒸溜が禁止されたのだが、ニールはこの曲で自分達の伝統的飲み物のウイスキーが作れないハイランダー達の辛い心境を表したとされている。この曲もここで作曲されたかなと想像した。

私生活

6.ニール・ガウの墓:ニール、ニールの最初の妻のマーガレット、早世した息子のアンドリュー、二番目の妻のマーガレットが葬られている。基石にはフィドルの彫り込みがあった。

ニールは2回結婚している。最初の妻マーガレットとの間には男の子が5人、娘が3人生まれ、4人の男子は全員父親と同じくフィドルの演奏家や音楽関係の出版者になり音楽を継いだ。

マーガレットは、ニールが40歳の時に死去したので、その後ニールは再婚した。二番目の奥さん、やはりマーガレット、との間に子供はなかったが非常に仲が良かったそうで彼女が亡くなるまでの30年幸せな生活を送った。彼女が亡くなった時にニールはすでに78歳だったがその時に作曲したのが"二人目の妻への哀歌(Lament to the death of his 2nd wife)"で、ニールの曲の中で最もよく知られている。哀歌と命名されているが、明るいニ長調のゆっくりした6/8拍子の曲で、亡くなった妻との幸せな時代を追憶しているかのようである。

ニールは1807年に80歳で死去した。平均寿命おそらく50歳以下のこの時代に驚くべき長寿である。彼の住居のあったインバー村からテイ川をすこし下流に行ったダンケルド小教会 (Little Dunkeld Kirk) の墓地に葬られた。今の墓標は比較的新しい。オリジナルの大理石の墓石は痛みがひどくなったので1987年にニール・ガウ・メモリアル・トラストが結成され現在の墓石が立てられた。オリジナルはダンケルド大聖堂の資料室に保存されている。

マクベスのオーク

7.マクベスのオーク:セシル・オークの老木で胴周5.5m、右側は洞になっている。実在のマクベスが死亡した1057年に生えていれば樹齢1000年をゆうに超えるが、それよりは若く700年くらいと言われる。

ニールの墓のあるダンケルド小教会のすぐ裏、テイ川の畔に巨大なオークの木があり'マクベスのオーク'と呼ばれている。このマクベスは、シェイクスピアの悲劇マクベスの主人公のマクベスである。この辺りはバーナム(Birnam)といい、古くから鬱蒼とした森があることで有名であった。

マクベスの劇中第4幕第四場で、ダンカン王を暗殺したマクベスは、ダンカンの息子マルカムが報復に自分の居城のダンシネーンを襲うのではないかと不安にかられ、3人の魔女と代わり替わり現れる幻影に自分の運命について聞く。王冠を戴き手に木の枝を持った子供の幻影はダンカンの息子のようだが、その幻影はマクベスに言う"・・・マクベスは決して滅びぬ、広大なバーナムの森が高いダンシネーンの丘に向かってくるまでは"と。

森が動くことはありえない、とマクベスは安心するのだが、マルカムの軍勢は全員バーナムの森で木の小枝を切り、それでカモフラージュして姿を隠しダンシネーンに攻め入るのである。

マクベスのオーク近くの案内版には、3人の魔女の絵と共にこのオークを不滅にしたシェイクスピアの"・・・マクベスは決して滅びぬ、広大なバーナムの丘が動いて・・・(Macbeth shall never vanquish'd be until Great Birnam Wood to high Dunsinane Hill Shall come against him)"のフレーズが記されていた。

フィドルのライブ

8.テイバンクでのフィドル・セッション:この日はフィドル2名、ギターとピアノのセッション。ニール・ガウを思い出しながら聞くスコッティッ・フィドル曲は趣十分だった。

歩き疲れたのでバーナムからダンケルドに戻って一休みすることにした。テイ川にかかるダンケルド橋を渡ってすぐ右側に、Taybankというパブがあり Scotland Musical Meeting Placeと記されている。入って地場のビールを飲んでいると数人のグループのセッションが始まった。

バーの人に聞くと、バンドの名前はないが、リーダー格のピート・クラーク(Pete Clarke)さん(写真中、後姿の男性)は有名なフィドラーで、多くのCDも出しガウの研究家でもあるという。道理ですごく上手だった。

ガウ詣では終わったが、この地方まだまだロマンが多い。ピーター・ラビットは、ベアトリックス・ポッターがダンケルド滞在中に書かれたし、周辺の自然もみどころがまだまだある。

参考資料
1.Blair Castle. Written by James Jauncey for Athol Estate(2011)
2.Perth shire. Big Tree Country. Visit Scotland
3.新訳マクベス.シェイクスピア、河合祥一郎(訳)角川文庫
4.http://en.wikipedia.org/wiki/Niel_Gow
5.http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Raeburn
6.http://www.niel-gow.co.uk/
7.http://www.folkmusic.net/htmfiles/inart441.htm
8.http://en.wikipedia.org/wiki/John_Murray,_4th_Duke_of_Atholl
9.http://www.forestry.gov.uk/forestry/INFD-6U8FL9
10.http://tonyupton.tripod.com/gow/FarewellToWhisky.png
11.http://tonyupton.tripod.com/gow/NielGowsLament.png