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稲富博士のスコッチノート

第61章 ドランブイ・ストーリー その1.ボニー・プリンス・チャーリーとドランブイ

ドランブイとボニー・プリンス・チャーリー:ドランブイ秘法の草根木皮の処方はスコットランド・ステュワート王室の末裔、プリンス・ チャールズが伝えたとされている。

世の中数多の銘酒の中で、このスコッチ・ウイスキー・ベースのリキュール、ドランブイ(Drambuie)ほど多くのロマンに彩られたものは無いだろう。3回ほどこのスコットランドのステュワート王家の末裔、チャールズ・エドワード・ステュワートの秘法のレシピに由るとされるこのリキュールについて話をしたい。


蜂起

エリスケイ島プリンス・ビーチ: プリンス・チャールズが始めてスコットランドで足を踏み入れたところ。著者の訪問時はご覧のように好天に恵まれ、素晴らしい景観であったが、チャールズが着いた時は強い風雨の悪天候だったという。

1745年7月23日、スコットランド北西、ヘブリディス諸島の最南端近くの小島エリスケイに一隻のフリゲート艦"デュテーユ"が到着した。降りてきたのはチャールズ・エドワード・ステュワートとわずかな供の者である。チャールズはスコットランドのステュワート王室の末裔で、1720年のローマ生まれである。当時24歳の本人はそれまでスコットランドに来たことはなかった。容姿の端麗さから"ボニー・プリンス・チャーリー"と呼ばれた。チャールズは、名誉革命で国外追放されたチャールズの祖父ジェームⅡ世(スコットランドのジェームスⅦ世)が失ったスコットランド、イングランド、アイルランドを支配する王権を取り戻す野心を持ち、イタリアからフランスを経てやってきたのである。


グレンフィナンのモニュメント:1745年8月19日、チャールズは馳せ参じたハイランドの兵士の中でステュワート家のスタンダード(国王旗)を立てた。兵士の大半はケルト語しか話せなかったので、チャールズの英語の演説は理解できなかったという。

チャールズの王権奪回の計画にフランスに亡命中の父親のジェームスⅢ世(自称)は現実的でないと不賛成であったが、チャールズは父親の意向を無視し密かに計画を実行に移した。最初は1743年3月、チャールズはフランス侵攻を準備していたフランス海軍に同乗してイングランドへ行こうとしていたが、折からの嵐で多数の艦船が破損、計画は挫折した。それでも諦めなかったチャールズは1745年7月、友人の商人の協力で得たフリゲート艦"デュテーユ"に乗りスコットランドを目指した。護衛に就いた戦艦"エリザベット"は、途中で英国の戦艦"ライオン"と交戦、双方とも大破しフランスへ帰還してしまったのでスコットランドへ到着したのは"デュテーユ"のみであった。

フランス軍の後押し無しでも王権の奪還をしようとしたチャールズは、自分がスコットランドへ行けばステュワート支持の各地のクラン(氏族)が一斉に馳せ参じると希望的に考えていた。その背景は、1707年のイングランドとスコットランドの議会統合は不人気、1714年から連合王国の国王はドイツ・ハノーバー家から来たジョージで、自分たちの国王との心情が薄い、ステュワート王室への支持は依然強く、1715、1719年の2回ジャコバイト(Jacobite、歴代ステュワート王はJames、すなわちラテン語のJacobを名乗ったのでJames支持者を指す)の蜂起があった、である。


エリスケイからスコットランド本土へやってきたチャールズはバラデール(Borrodale)に留まりスコットランド各地のクランに蜂起を働きかける。反応は必ずしも芳しくなかったが、8月19日には千数百人のハイランダーがグレンフィナン(Glenfinnan)での旗揚げに集結した。現在グレンフィナンには1815年に建てられた記念塔とビジター・センターがあり往時を偲ぶことができる。

攻勢と敗北

カローデンの記念碑:1746年4月16日、圧倒的に不利な状況下で政府軍に無謀な戦いを挑んだジャコバイトは惨敗する。ここからチャールズの長い逃亡が始まった。このモニュメントは1881年にDuncan Forbesが建設した。

チャールズのジャコバイト軍は東に向かって進撃し9月17日にはエジンバラに至る。エジンバラにいた政府軍はチャールズ軍を迎え打つためハイランドに行っており、政府軍をうまく避けたチャールズは政府軍のいないエジンバラへ先に到着した。ホーリールード宮殿へ入ったチャールズは父親のジェームスⅢ世のスコットランド王への復帰と自分がその摂政太子に就いたことを宣言した。

8月21日、エジンバラの東約15kmのプレストンパンズで政府軍を破ったチャールズのジャコバイト軍は、31日にはロンドンへ向かって進撃を始めた。11月17日にはカーライルへ、12月4日にはロンドンまであと200kmのダービーに至る。まさに破竹の勢いだったが、その頃いくつかの暗雲が起ち始めた。期待したイングランドのジャコバイトの加勢は全くなく、政府軍は圧倒的に優勢、仮にロンドンを落としても統治は無理、補給難と資金の欠乏、兵士の士気の低下などである。軍議は紛糾したが、ひとまずスコットランドへ撤退してフランスの救援を待つことにし、12月6日にスコットランドへ向けて退却を開始した。

ダービーからカーライル、グラスゴー、スターリングを経てインバネスに着いたのは翌年1746年の2月18日、途中グラスゴーに数日滞在したとはいえダービーから2ヵ月半かかっている。この季節の行軍は難渋を極めたに違いなく、特にスターリングからインバネスのルートは厳冬には過酷だった。


英政府は、ジャコバイト制圧のためオランダでフランスと戦っていた軍隊を急遽呼び戻しハイランドへ進攻させた。指揮するのは国王ジョージⅡ世の次男のカンバーランド公爵である。9,000人の政府軍は正規の軍隊で、装備に優れ、よく訓練され経験も豊富、十分な補給体勢を整えていた。これに対し、チャールズのジャコバイト軍は、各クランの寄せ集めの上、人数も政府軍の半分、装備や統率も劣り兵士は空腹だった。1746年4月16日、両軍はインバネスの東約4マイルのカローデン(Culloden)で戦ったが、政府軍が圧勝、戦いは3、40分でけりがついた。ジャコバイト軍の半数が死傷したのに対し、政府軍の戦死者は300人くらいに過ぎなかったという。政府軍によるハイランダーの苛烈な殺戮は戦いの後も続き、カンバーランドは"ブッチャー(殺し屋)"と呼ばれた。

大逃亡

フローラ・マクドナルド:外ヘブリディスからスカイ島まで危険を冒してチャールズを案内した。その勇気と忠誠心、危機に際しての機転は今でも人々の賞賛を集めている。

チャールズは、敗戦の戦場からわずかな供回りと必死の脱出をした。以後5ヶ月に及ぶ逃亡の始まりである。一向は南西に向かって進み4月26日に西海岸のロッホ・ナン・ウァーヴ(Loch nan Uamh)に着く。ここは9ヶ月前にチャールズが最初に英本土を踏んだ所で、チャールズはここから船でヘブリディスへ逃れた。ハイランドの西方へ逃れた理由は、この地方のクランのキャメロン(Cameron)、マッキノン(Mackinnon)、マクファーソン(MacPherson)、マクドナルド(Macdonald)などはステュワート家への忠誠が強く、とりわけ西ハイランドのロッホアーバー(Locharber)からスカイ島とヘブリディスまでの広範囲に勢力を持つマクドナルドを頼りにしたこと、この地方に潜伏して政府軍の捜索を逃れフランスからの救出を待つという考えに由る。

ヘブリディスへ逃れたものの、そこでも長い間安全に留まれる場所は無かった。ほとんどの場合、洞窟や岩陰に身を隠しながら1日か2日の滞在で居場所を変えた。捜索から逃れることに加えて、スコットランド独特の湿地や川を越えての移動、風雨による寒さや食料不足も辛苦だった。ヘブリディス諸島では、島々を転々と移動したがそれでも危険が迫ってきた。政府軍の捜索網が狭まっていたからである。目立たぬように世話をしてくれたマクドナルドのアドバイスもあり、チャールズはスカイ島に逃れることになった。


ロッホ・ナン・ウァーヴ: 前方西側に開いているところは大西洋である。1746年9月20日、チャールズはこの湾で待ち受けていたフランス軍艦に救出されフランスへ向かった。再度スコットランドの土を踏むことはなかった。

案内役は、スカイから丁度ユイスト島に来ていた若い女性のフローラ・マクドナルド(Flora MacDonald)である。彼女はユイスト生まれだがスカイ島で育ち、この地のジャコバイト支持派のマクドナルドに知己が多く、チャールズの保護を依頼する役を担った。ユイストからスカイへの海上も政府軍の船が多数パトロールしていたので、見つかった時の事を考えて、チャールズを女装させフローラのメイド、"ベティー・バーク(Betty Burke)"に仕立てた。6月28日夜8時、フローラ、ベティー、供のもの一人は数人のボート・マンが漕ぐボートに乗ってスカイ島を目指した。夜間暗くなっての航行、霧、強風と困難はあったがボートは30時間かかって無事スカイに到着した。この危険を冒したドラマテックな航海を成功させたのが若い女性であったことから、フローラは勇敢さで歴史に名を残す事になった。スコットランド民謡の"Skye Boat Song"はこの史実によっている。

スカイに着いても逃亡の旅は続く。今度はスカイ島南のエルゴール(Elgol)へ行き、そこから船で英本土へ渡る計画である。エルゴールでチャールズの世話をし、英本土へ渡る船の手配をしたのはマッキノン(Mackinnon)父子である。彼らは本土のバラデールで次にチャールズを保護してくれるマクドナルドへ引き継ぐまで数日間チャールズに付き添った。長年伝説として、マッキノンとの別れ際にチャールズは、ドランブイの秘密の処方箋をマッキノンへ自分への献身的な働きへの感謝の印として渡したとされているが、レシピを保管してきたマッキノン家の伝承では、マッキノンはチャールズの1745年の蜂起のどこかの時点で、チャールスに従軍していたフランス軍の士官から渡されたという。


この後約2ヶ月間チャールズは、最も隔絶した西ハイランドの山奥を転々としながら潜み、フランスから救出の軍艦が来るのを待った。この間、チャールズを庇護したのはキャメロン(Cameron)とマクファーソン(MacPherson)のクランであった。9月13日の早朝、2隻のフランス軍艦がロッホ・ナン・ウァーヴで待機しているというニュースが入る。一時間後にはチャールズは隠れ家を出発した。ロッホ・ナン・ウァーヴはチャールズが英本土へ最初に着いたところである。9月20日、チャールズを乗せたフランス艦ウールー(Heureux)はフランスへ向かった。

カローデンの敗北から5ヶ月間、チャールズは、西ハイランドを逃げ回ったことになる。その間よく逃げ通せたものである。チャールズの首には£30,000、現在の金額では£15 million(20億円)がかかっていたし、匿ったことがばれれば死刑である。逃亡を助けたマクドナルド、マッキノン、マクファーソン、キャメロンなどの動機は損得でなかったことは確かである。また自ら積極的には協力しなかったクランも密告はしなかった。彼らのステュワート家へ強い忠誠心としか言いようが無い。

ドランブイのレシピ

プリンス・チャールズの薬箱:カローデンの戦場から回収されたこの薬箱には158ものバルサム、チンキ、ガム、薬石、薬草等が整然と収納されている。薬草・香草のなかにはドランブイに使われているものも多い。(Courtesy Royal College of Physicians Edinburgh, Scotland)

マッキノンがボニー・プリンス・チャーリーから与えられたドランブイの秘密のレシピは、マッキノンからレシピを引き継いだロス家の子孫が保管しているとのことだが公示されていない。それでも、レシピがチャールズの1745年の蜂起に纏わるという話がつくり話ではないいくつかの論拠がある。

・チャールズが育ったヨーロッパの貴族社会ではハーブのリキュールを飲む習慣があった。
・スコットランドでチャールズが、小さなフラスコから数滴のエッセンスを毎日飲んでいるのを何人もが目撃している。
・カローデンの戦いの後、プリンス・チャールズの薬箱がカローデンで発見され、現在エジンバラのロイヤル・カレッジ・オブ・フィジシャン(Royal Collage of Physician = 王立内科大学)に保管されている。その中には多数の薬草、薬石、香草、チンキ類が含まれ、その中には現在ドランブイに使用されていると思われるハーブも多い。
・英国では手に入らないヨーロッパ産のハーブが使用されている。
・1870年以前から、マッキノンが首長であったスカイ島南部では、ドランブイに似たリキュールがよく飲まれていた。
・ドランブイの風味のスタイルは非常にフランス的である。


1745年7月23日、ボニー・プリンス・チャーリーが英国王権をステュワート家に取り戻すべく若い野望を持ってエリスケイ島に来てから14ヶ月で彼はフランスへ去った。彼の野望は潰え、ステュワー家を支持してくれた人々やハイランドに非常な禍を残した。ユニークなウイスキー・リキュールのドランブイは、彼のせめてもの償いかもしれない

参考資料
1. The Flight of Bonnie Prince Charlie, Hugh Douglas & Michael J. Stead, Sutton Publishing, 2000
2. In the Steps of Bonnie Prince Charlie
3. The Drambuie Story, Robin Nicholson, The Drambuie Liqueur Company Limited, Edinburgh, 2001
4. Medicines from Prince Charles Edward to Prince Charles, Ronald H. Girdwood, Lilly Lecture, 1979
5. http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Edward_Stuart
6. http://www.drambuie.com/
7. http://www.cognosis.co.uk/downloads/0911%20Class%20Write%20Up%20v%202.pdf
8. http://www.excepscotland.co.uk/draumbuie.asp
9. http://en.wikipedia.org/wiki/Flora_MacDonald_(Scottish_Jacobite)