Ballantine'sBallantine's

Menu/Close

稲富博士のスコッチノート

第48章 ロブ・ロイ・マグレガー

グレンガイル・ハウス:ロブ・ロイは1671年にこの地で生まれた。現在のこの建物は、18世紀初頭にロブ・ロイが家督を継いだ甥の為に建てたといわれる。美しいが荒涼としたハイランドの中にある。

ロッホ・カトリンの西端近くの北岸にぽつんと一軒の家がたっている。荒涼とした周囲にあって、白壁と赤の窓枠が一際目を引くこの家がグレンガイル・ハウス(Glengyle House)である。1761年の早春、現在の建物ではないがそれ以前に同じ場所にあった家で1人の男の子が誕生した。男の子はロバート(ロブ)と名付けられた。スコットランドが排出した数多の人物のうち、大人物という訳ではないが何となく気になるこの男の本名はロバート・マグレガー(Robert MacGregor、1761-1834)で、ロブ・ロイは“赤毛のロブ"を意味する。

ロブ・ロイはロッホ・カトリンの周辺、ロブ・ロイ・カントリーといわれる地域で活躍した。優れた牛のトレーダーとして名をなしたが、同時にマグレガー・クラン(Clan=氏族)の実質的なチーフ、無法者、権力への反逆者、剣の達人、民衆の英雄、ジャコバイト(スコットランド・ステュワート王朝の支持者)、政府側のスパイなど多彩な側面をもち、その劇的な生きざまは多くのアーティストの創造力を刺激してきた。デュフォー(Daniel Defoe), スコット(Walter Scott), ワーズワース(William Wordsworth), ケートンージョーンズ(Michael Caton-Jones)などの文学作品や映画に見られるとおりである。

クラン・マグレガー

ロブ・ロイの生きた1800年前後というと日本では江戸中期、8代将軍吉宗の時代で、政治的に安定した時代であったが、スコットランドでは1707年の議会の統合や1714年に成立したハノーバー政府に反対するジャコバイトの蜂起、クラン(氏族)間の争いなど混乱の中にあった。

弱小クランのマグレガーは悲運のクランである。マグレガーに生まれることは後の人生が過酷であることを約束されたも同じであった。土地だけが生産手段であった時代で、各クランは武力、政治的策略、政略結婚など、手段を選ばず領土と権力の拡大を図った。マグレガーはロッホ・ローモンドの東岸、トロサックスからスターリングに亘る地方に居住したが、周辺の強力クランのキャンベル(Campbell), グレアム(Graham), マレー(Murray)に次第に圧迫され荒地へ追いやられていった。

切羽つまったマグレガーは、生き残るためにしばしば他のクランを襲撃し家畜を略奪した。1603年には隣接するクランとの戦いと大量の家畜を略奪したかどで、マグレガー姓を名乗ることや武器の携行は禁止、違反がわかればその場で処刑という過酷な法的処置を受けるが、法廷は有力クランの影響下にありその公正さは大いに疑問であった。この法の執行を受け持ったキャンベルとマレーは“マグレガー狩り"を行って多数のマグレガーを情け容赦なく殺戮した。このマグレガー姓の禁止はロブ・ロイの時代も続いていて、ロブ・ロイもマグレガー姓ではなく、母方の姓キャンベルを名乗っていた。

牛トレーダー

カイロー(Kyloe):ロブ・ロイの時代に飼われていた長角、小型の牛である。当時のハイランドで最も重要な農産物で、経済はこの牛に深く依存していた。(ロッホ・カトリン、トロサックス波止場の展示物)

ロブ・ロイ像:スターリング城近くにあるこの像はロブ・ロイの7代目の子孫が建てた。広い肩幅、強靭な足、得意のブロード・スワードをかざす異常に長い手は伝説そのままである。

ロブ・ロイはまず牛のトレーダーとして名を成す。ハイランドで牛を買いつけ、ローランドとの境の町で売って利益を稼いだ。牛トレードの傍ら、自分では自らの牛を略奪から守りきれない農家に牛番を買って出て手数料(Blackmail)を稼いだ。このblackは黒牛、mailは納付金のことである。牛番を依頼しなかった農家の牛は、1頭、2頭と数が減った。牛だけでなく、武器の取引も行ったようである。海外から購入しグラスゴーに着いた武器は、英政府の反乱軍であるジャコバイトに渡った。

ロブは信頼できるトレーダーとしての名声をあげ、牛への投資で利益を狙った周辺の貴族や有力者はロブに資金を渡して牛の購入を依頼した。この商売は当たり、ロブは儲けた金で何ヶ所かの土地を購入するほどになったが、投資にはリスクがあるのは当時も現在も同じである。当時のロブ・ロイの領主、モントローズ公爵も出資し、牛購入のためロブは1000ポンドもの大金を預かったが、この資金も牛も返還されないという事件が起こる。直接の原因はロブが信頼していた部下の牛飼いに持ち逃げされたというのが定説であるが、当然責任はロブにある。

没落とアウトロー

ロブは資金を返済しようとしたようだが、破産状態で返せず訴追の身になる。法廷に出れば詐欺罪で死刑は間違いなくロブは失踪する。身内のマグレガー・クランに支持されていたロブは、逮捕のために軍隊が来たという情報をいち早く知り逃亡したが、ロブの家財や家畜は没収され家は焼かれた。この処置に対してロブは復讐に出る。最大の敵としたのはモントローズ公で、公の所領の施設や家畜をターゲットにした戦いは10年以上も続いた。

脱走名人

ブキャナン・キャッスル:今は廃墟になっているが、この城は1854年にロブ・ロイの宿敵であったモントローズ公爵の第4代目が建てた。第二次大戦中は病院として使われたが、もっとも有名な入院患者はルドルフ・ヘスであった。

ロブ・ロイを、生死の別無く捕縛しようとする試みは続き、一度はモントローズに捕まっている。居所を急襲されたものだが、馬で移送される途中縛り付けていたロープを緩め川に飛び込んで逃走した。モントローズは積年の怨みをはらしたと思ったが今回も失敗した。

軍による捜索は失敗続きだったので、交渉を装っておびき寄せ捕まえる試みも何回かなされた。その内の1回、ダンケルドで行われたマレー(アソール公爵)との交渉に出向いたロブは無防備にも護衛もつけずに会場に入り、即逮捕された。老獪なロブ・ロイがなぜそのように無警戒だったか謎であり、マレーとの間で何らかの密約があったとの説もあるほどである。

アソール公爵は、だれもが成功しなかったロブ・ロイ捕縛の功績を独り占めにするため、ロブ・ロイをローランドから遠いダンケルドの北方に幽閉した。パース(Perth)から身柄を受取にきた軍隊には、司法に引き渡すのが筋である、として軍の立ち入りを拒否、その上で国王ジョージ1世に直接ロブ・ロイ逮捕を報告した。国王の心証を買って自己の政治的な地位の向上を図り、同時に政治的ライバル、モントローズ公爵へのあてつけを狙ったものであった。側近から国王が報告を受けたのは深夜であったが、わざわざアソール公爵に功を多とするメッセージを届けるよう指示したほどであった。

ところが、国王のメッセージがアソール公に届いたときには、ロブ・ロイはもういなかった。脱走したのである。なぜ易々と脱走したかこれも謎であるが物語りは生まれた。夜看守とウイスキーの飲み競争をしたときに、ロブ・ロイは飲んだ振りをしてウイスキーを自分のふさふさした雄大な赤ひげの中に溢して正気を保ち、看守が酔っている隙に逃亡したという。

ジャコバイトあるいは政府のスパイ?

1715年、蜂起したジャコバイトはシェリフミュア(Sheriffmuir)で英政府を支持するキャンベルと戦った。ロブ・ロイはマグレガー・クランの郎党500人を率いてジャコバイト側に布陣するが、戦には直接参加せず様子見を決め込んだ。中立はありえない状況で、この“戦場には行くが戦わない"はどちらについてもリスクがあり、又ジャコバイトとキャンベル双方に義理があるロブ・ロイの政治的判断であった。またロブ・ロイは、ジャコバイトの動きについての情報を政府側に提供していたようだが、これらの判断は、後年政府がロブ・ロイに恩赦を与えるかどうかを判断したときに大いに影響を与えた。時代の趨勢をよく読んでいたといえるだろう。

晩年

ロブ・ロイの墓(中央):ロブ・ロイが晩年を送った寒村バルキダー(Balquhider)の教会にある。銘板のMacGregor despite them(奴らがどうあれマグレガーこれにあり)は姓を禁止した政府への雄叫びだろう。

1725年、50半ばにさしかかったロブ・ロイは政府軍に降伏する。ロブ・ロイは政府軍のウェード(Wade)将軍に手紙を書いた。よく書けた手紙で、ウェード将軍の思いやりの深さを称え、又自分は過去政府軍に歯向かったことが無いこと、ジャコバイトについたのはその時の状況で止むを得なかったがジョージ1世の政府軍を攻撃したことはなかったこと、ジャコバイトに関する情報は政府側のキャンベルに提供していたことを述べ、最後はジョージ国王に仕えるのは長年の念願であった、と結んでいる。ウェード将軍とは面会もしたが、ウェードはロブ・ロイに非常によい印象を持ったようである。

この2年前の1723年、ロッホ・カトリンを訪れたダニエル・デュフォーは地元でロブ・ロイの話を聞きフィクションを書く。ジョージ1世はこれを読んでロブ・ロイの恩赦を決めたという。

アウトローでなくなったロブ・ロイはバルキダーで平穏な余生を送った。1734年、死の床にあったロブ・ロイはパイパーを呼び‘我は帰らじ'(We return no more)を吹かせ、曲が終わる前に息を引き取ったと言う。

ロブ・ロイとウイスキー

クラッハン・イン:1734年に免許を取得したというスコットランドで最も古いバー。ブキャナン・キャッスルのすぐ近く、ドゥリメン(Drymen)村にあり、ロブ・ロイの妹がオーナーであったという。

ロブ・ロイに因んだウイスキーがある。モリソン・ボウモア社の‘Rob Roy'は1913年からの古いブランドで、12年物はブレンド後に長期後熟されたまろやかな口当たりが特徴である。ベイリー・ニコル・ジャーヴィー(Bailie Nicol Jarvie)は、スコットの小説‘Rob Roy'中の登場人物であるが、グレンモランジー社製のこの名前のウイスキーはモルト比率が高くスコットランドでは結構人気がある。

カクテルのロブ・ロイは、マンハッタンのバーボン・ウイスキーの代わりにスコッチ・ウイスキーを使ったカクテルである。

これはウイスキーではないが、ロブ・ロイに因むバーを一軒紹介する。グラスゴーから北約1時間の所にドゥリメン(Drymen)という村があるが、そこのクラッハン・インである。ロブ・ロイの雰囲気をもつレストランでは典型的なスコットランド料理が手ごろな価格で食べられる。

1. Rob Roy, David Stevenson, John Donald Publishers, 2004.
2. Tales of Rob Roy, Loch Lomond, Sterling and the Trossachs, Lang Syne Publishers Ltd., 1982.
3. The Rob Roy Way, Rucksach Readers, 2006.
4. Scottish Clans and Tartans, Ian Grimble, Lomond Books, 2004.
5. Robert Roy MacGregor :Wikipedia-The Free Encyclopedia
6. Rob Roy MacGregor, legend and the truth :inCallander Website
7. Rob Roy :The Walter Scott Digital Archive-Edinburgh University Library
8. Glengyle House. Built by Rob Roy MacGregor :Glen Discovery
9. James Graham, 1st Duke of Montrose :Wikipedia-The Free Encyclopedia
10. John Campbell, 1st Earl of Breadalbane and Holland :Wikipedia-The Free Encyclopedia
11. John Murray, 1st Duke of Atholl :Wikipedia-The Free Encyclopedia
12. Rudolf Hess :Wikipedia-The Free Encyclopedia
13. Scottish Castles Photo Library - Buchanan Castle, Stirlingshire
14. Battle of Sheriffmuir :Wikipedia-The Free Encyclopedia