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稲富博士のスコッチノート

第43章 スマッグリング(Smuggling)の話 その1.背景

イングランドースコットランド連合300年記念2ポンド・コインの裏面:2007年は両国の議会が連合して大英連合王国になってから300年であった。コインの上左側はスコットランドのシンボルの薊の花, 下右半分にはイングランドの国花のバラ、上右側、下左側は議会を表す入口の格子が刻まれている。外枠の数字は議会統合の1707年と300年周年の2007年である。

1603年から100年以上に亘ってイングランドとスコットランドは、王室は一つなのに議会は別々で、行政はそれぞれの政府が行うという、国としては“ねじれ"状態が続いていたが、両国議会は1707年に合併した。昨年2007年は、このイングランドとスコットランドの議会が合併して大英連合王国(United Kingdom of Great Britain)が誕生してからちょうど300年であった*

連合の背景は複雑で、イングランド、スコットランドともそれぞれの事情を抱えていた。イングランドがもっとも危惧していたのは、スコットランドが再度自国の君主を戴き、完全な独立国としてイングランドの敵国フランスと同盟することであったし、密貿易や何かとトラブルを起こすスコットランドを何とか制御したかった。スコットランド側の事情はより深刻であった。度重なる飢饉、海外への進出の失敗から財政は完全に破綻、交易は行き詰まり、イングランドの協力なくして将来の展望は開けなかった。

議会が合併したといっても、イングランドの力は圧倒的に大きく、いま流行の企業の買収・合併に例えると“大企業イングランドによる中小企業スコットランドの併合"に近かったといえる。議会と政府はロンドンに移り、以後スコットランドの行政のイングランド化が進行していった。ウイスキーやビールに対する課税もその一つだが、地域社会の歴史、経済や文化的な背景を考慮せずに“イングランドと同等の課税"が導入され、それが以後150年近くのウイスキー密造時代を招来することになった。2,3回に亘って今はもうロマンになったスコッチウイスキーのスマッグリング(Smuggling**)の話をする。

スコットランド農民の暮らし

ハイランド・フォーク・ミュージアム(キンニューシー):17-19世紀のハイランドの生活に関する資料が収集されている。兄弟博物館のニュートンモアが農村や町の風景と建物が展示されているのに対して、ここは当時の生活に関する用具類や文献類の収集が中心である。 博物館は文末の参考資料に掲げた Highland Folk Waysの著者イザベル・グラント女史の個人的努力で開設された。現在はインバネス自治体が運営している。

ウイスキー・スマッグリングの主役は、ローランドから離れたハイランドやアイランズ(西部の島々)に住む貧しい農民であった。彼らには、厳しい条件下での生産性の低い農業以外生活を支えるすべがなく、この農業もしばしば収穫不良に見舞われ飢饉を招来した。当時の農民の生活を伝える博物館がある。

グラスゴーからインバネスへ向かう国道9号線がパース、ピトロッホリーを過ぎると風景は一変し樹木の無い岩山、渓谷、湿地が広がる。左にダルウィニー(Dalwhinnie)蒸溜所のパゴダが見えてからしばらく行ったところで幹線道路から旧道に入ると、すぐにあるニュートンモア(Newtonmore)と、近接するキンニューシー(Kingusie)の二つの町に分かれてハイランド・フォーク・ミュージアム(Highland Folk Museum)がある。ハイランド民族博物館と訳せばよいと思うが、この二つの博物館には17-19世紀にかけて丁度ウイスキーが盛んに密造されていた当時のハイランドの農民の生活の様子を知る資料が収集展示されている。

住まい

ブラック ハウス:スコットランド西方の島、ルイス島のブラック・ハウスを再現したもの。石つくりの壁、草葺きの屋根は強風に耐えるよう角がなく、ロープで縛られている。(Kingussie Highland Folk Museum)

ブラックハウスの内部:入口入ったところの牛小屋(バイヤー)。すぐ奥は居室で普段の生活はすべてここで行われた。一番奥は冬の間の食糧の貯蔵や、特別な目的にだけ使われた。(Kingussie Highland Folk Museum)

ハイランドとアイランズの人々は、何百年もブラックハウス(Blackhouse)といわれる粗末な家に居住した。ブラックハウスのつくりは、石か芝を積み重ねた壁にヘザーで葺いた屋根を乗せ、床は土間で窓はほとんど設けられていない。ブラックハウスの名前の由来は、19世紀終わり頃に作られるようになった家がホワイトハウスと呼ばれたこととの対比だそうだが、ブラックハウスは窓がないか、あっても極小さく、煙突が設けられていない室内は長年燃料として焚かれたピートの煙で煤け、煙が充満して暗かった。

室内は通常3区画に仕切られている。入口を入ったところはバイヤー(Byre)といわれ、厳冬期に家畜(主として牛)を入れる区画である。バイヤーは家の中で一番低いところあり、家畜の排せつ物を外に出すための溝と排出口が設けられている。別にトイレがあるわけでないので、人間もここを共用した。

その奥が人の住む居室で、中央の土間には囲炉裏があり食事の調理と暖房はすべてこの囲炉裏の火による。燃料にはピートが使われた。壁際には造りつけのベッドがあり一家全員が寝たというが、この小さなベッドにどうして寝られたのか不思議に思うほどのサイズである。最も奥の部屋は出産、病人や死亡した家族の遺体の安置など特別な時に使われた。

農業

ブラックハウス内部の居室:土間に囲炉裏がありピートが焚かれている。この火が暖房、調理、照明のすべてをまかなった。奥の衝立の向こうは牛小屋である。右の女性が博物館の案内の女性で、訪問客に当時の生活の様子を語っている。(Newtonmore Highland Folk Museum)

オート(Oat):日本語で燕麦やカラスムギといわれる。寒冷な気候に強く、スコットランドでは現在でもよく栽培され食される。イングランド人が、「オートはイングランドでは馬の飼料だ」と言ったのに対して、スコットランド人が、「だからイングランドでは馬が、スコットランドでは人が優秀なのである」とやり返したのは有名な話である。

ハイランド・キャトル(Highland cattle):スコットランド固有種の牛である。冬の極寒に耐える長い毛を持ち、粗食にも耐える。18世紀にスコットランド西部で飼育されたものは黒色でずっと小型であった。長い毛と角の風貌は、時代劇に出てくるザンバラ髪に長太刀の素浪人を思わせるが、性格はおとなしいという。(Glendronach 蒸溜所にて)

当時の農業であるが、寒冷で太陽の恵みが少なく、地味の痩せたハイランドで収穫できる穀類はオート(Oat)と大麦で、その大麦も大半が原始的な品種のベアー(Bere)であった。これらの穀物の商品価値は低く、また当時の交通事情は劣悪なため都市に運ばれることはなかった。

経済的に最も重要だったのは牛である。寒冷で土地が痩せ、良好な草地に恵まれなかったハイランドや島々で飼育されたのは、寒さに強く、草だけでなく木の葉も食べるハイランド・キャトル(Highland cattle)である。寒さに強いといっても、零下15℃にもなる厳冬時は屋内に置かれた。冬の間ほとんど餌は与えられず牛は痩せ細るが、春になると草原に出され何とか命をつないだ。夏をすぎ、十分餌をとって太ったところで都市に運ばれ市場で売られた。運ぶといっても徒歩での移動で、この輸送と販売を請け負ったのがドローバー(Drover)と呼ばれた家畜商である。ドローバーは数十頭の群れをハイランドからローランドまで、又はるかイングランドまで追った。映画となったスコットランドの義賊?ロブ・ロイ(Rob Roy)はこのドローバーであった。

食べもの

食糧事情は厳しく食べられるものは何でも食した。オートの粥、大麦のパン、ミルク、バター、卵に、周辺で採れる魚や動物、果実類などである。食糧が逼迫する冬にはしばしば牛の血を失敬してオートに加えて食べた。家畜や家禽はそれらが生み出すミルク、卵、羊毛が命綱なのと、牛は商品として大切なので、これらは死ぬまで人間の口に入ることはなかった。スコットランド料理として今に伝わるブラック・プディング(牛の血のソーセージ)、コッカ・リーキー(Cock'a Leekie, 丸鶏とポロネギのスープ)、ハギス(Haggis, 羊の内臓とオートのプディング)、ポーチャーズ・ブロス(Poacher's broth, 野鳥のスープ)などは昔の農民の生活を物語る。

衣類

衣類は、自家製のウールが主体で、羊毛を紡ぐのは主婦の大事な仕事であった。出来た糸は村の織屋で生地にしてもらった。衣類は着替えることはほとんどなく、使えなくなるまで着用した。入浴、といっても盥で体を洗う程度なのだが、年に一、二度であったという。劣悪な衛生状態も手伝って、当時の平均余命は 50歳以下であった。

スマッグリングの始まり

このように厳しい生活をおくっていた農民にとって、牛に次いで大切な換金商品が数百年に亘って農家が自家製造していたウイスキーである。長年自由に製造、取引されていたウイスキーが、連合王国の成立以降課税が強化された訳であるが、貧困なスコットランドの農民に酒税を払うことは不可能であったし、彼らにしてみればスコットランドの王室とは全く関係ないドイツから来た王様が率いる英国議会への恭順など理解できない話であった。ローランドでは産業革命の勃興期で、都市が発展しウイスキーへの需要は旺盛であったが、税金を払わされたローランド・ウイスキーは、コスト節減のための未発芽穀類の使用や無理な蒸溜方法が祟って品質は低劣、全く人気がなかった。これに対して麦芽だけを原料とし、丁寧につくられたハイランド・ウイスキーの人気は高かった。

商品に需要があり、供給者側に生活が掛っているところへ高い税金をかけると密造、闇取引が起こるのは当然である。次回からこの話をしたい。

1. Highland Folk Ways. I. F. Grant, Birlinn Limited Canongate Venture, Edinburgh, 1955.
2. The Secret Still. Gavin D. Smith, Birlinn Limited, Edinburgh, 2005.
3. Scotch. Its History and Romance, Ross Wilson, David & Charles, 1973.
4. The Highland Folk Museum Newtonmore Visitor Guide. The Highland Council, 2005.
5. Highland Folk Museum - Historical Scotland traditional activities centre
6. United Kingdom Two Pound Coin Design
7. Acts of Union 1707 :Wikipedia-The Free Encyclopedia
8. Highland cattle :Wikipedia-The Free Encyclopedia
9. A Highland Home :Electric Scotland

*2007年は大英連合王国誕生300年の記念すべき年であったが、昨年のスコットランド議会選挙ではスコットランドの分離独立を掲げるスコットランド国民党(Scottish National Party)が、労働党を抑え第一党となったのは皮肉であった。

**Oxford English DictionaryによればSmuggleは「国内又は国外へ違法に物品を移動させること」となっているが、19世紀まで行われたスコッチ・ウイスキーのSmugglingは密造と密取引の両方を含んでいる。