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稲富博士のスコッチノート

第16章 グラスゴーとウイスキー

グラスゴーとエジンバラ。このスコットランド1、2の都市はお互いに強いライバル意識をもちながら発展してきた。都市の性格が、エジンバラが行政、司法、学問、軽工業の町であるのに対してグラスゴーは商業と重工業で覇を唱えてきた。住人の性格もグラスゴー人はエジンバラ人を「お高くとまっていて冷たい」というし、エジンバラ人はグラスゴー人を「フレンドリーだが品がない」と評していて、いってみれば東京と大阪の関係といったところ。そういった意味でも、第 13章で「エジンバラとウイスキー」書いたので、「グラスゴーとウイスキー」についてお話さなければなるまい。グラスゴーのウイスキーはローランドでの蒸溜の歴史、19世紀後半以降からのブレンダーの勃興やビジネスにおいてエジンバラを超える存在なのである。

1. グラスゴー抄録

始まり

グラスゴー大聖堂:中世期以前に建てられた多くのスコットランドの大聖堂は17世紀の宗教改革で2つを残して全て破壊されたが、このグラスゴー大聖堂は破壊を免れたうちの1つ。大聖堂に係る市の商工業者が“宗教的信条よりも文化遺産を守る"ことにした為という。

現在のグラスゴー市街の中心部から少し東寄りにグラスゴーの大聖堂がある。6世紀に聖マンゴーがこの地に小さな教会を建て、そこから町が始まったとされている。以後数百年は小さな集落のままで大きな変化が無かったが、12世紀に現在の大聖堂の建設が始まり200年かけてほぼ今の形に完成してからは大聖堂に参詣する人々の交易で町の発展が進んだ。エジンバラが城と王宮を中心に発展したのと対照的である。

交易都市としての発展

交易都市としての本格的な発展が始まったのは15世紀終り頃。交易地域は近郊のスコットランド内に止まらず、アイルランド、フランス、ノルウエーに及ぶようになる。「グラスゴー人は航海と商売に長けている」といわれるようになったはこの頃からである。17世紀終り頃にはアメリカ大陸や西インド諸島との貿易が始まり、市内を流れるクライド川に沿って港の整備が行なわれた。交易での輸入品は砂糖、タバコ、穀類等、輸出されたのは繊維類、農機具、馬具、鉄製品、靴、陶器、家具などでグラスゴーは多忙であった。グラスゴー人はスコットランドとイングランドとの王室の統合やジャコバイトの反乱など政治的ごたごたは無関心だったといわれている。関心はもっぱら「商売」にあったようで、この辺りも大阪的である。

重工業の発展

ジェームス・ワット像:グラスゴー大学で機械整備士の仕事をしていたジェームス・ワットは従前の初歩的な蒸気エンジンを大改革し産業革命への道を開いた。ワットは大学教育は受けていなかったが、グラスゴー大学のブラック教授(潜熱の発見者)との交流を通じてワットのエンジンは当時最新の熱力学に裏付けされていた。

グラスゴー大学で機械技師をしていたジェームス・ワットがそれ以前の蒸気機関を革新的に改善したワット・エンジンを開発したのは18世紀後半で、以降の産業革命の中心となったのはスコットランドではグラスゴーであった。石炭は16世紀ころからグラスゴー近郊で掘られていたが、19世紀初頭にはすぐ近くで鉄鉱山が発見され蒸気エンジンの導入と相俟って製鉄と機械工業が発達した。

造船の盛衰

フィニーストンのクレーン:クライド川のストブクロス埠頭に立つこのクレーンは1932年に完成した。高さ59m, 最大揚力175トンで、船へのボイラーやエンジンの据付、蒸気機関車などの重量物の積み込みに使用された。現在は“グラスゴーのエッフェル塔"といわれるシンボルとなっている。

第一次大戦の時にドイツのUボートに撃沈された悲劇のルシタニア号、かのクイーン・メリー号やクイーン・エリザベスI号とII号はこのグラスゴーの建造である。造船が始まったのは19世紀始めであるが、以後最初の蒸気船、早期に鉄鋼船の建造を始めた事、燃費を大幅に改善した複合エンジンの開発など世界をリードする技術で世界一の地位を固めていった。第一次大戦直前の最盛期には全世界の船の20%がここグラスゴーとその近郊で建設された。関連する重機械工業も盛んで同じころ蒸気機関車は世界の25%を生産したという。しかしながら造船業は1960年頃から急速に衰退し、現在では2つのドックを残すのみとなった。その理由は、航空機の発達によって旅客市場が全く変わった事や、狭隘なクライド河畔の造船所では大型化した船の建造に向かなかった事もあるが、経営が保守的になり十分な投資が行なわれなかった為に国内外、とくに極東の国々との競合に破れたのが大きい。クライド川の遊覧船に乗ると両岸には荒れ果てたドックの跡が延々と続き、かっての隆盛を寂寞のなかに偲ばせるのである。

2. グラスゴーのウイスキー

蒸溜所

フォース・クライド運河とかつてのウイスキー貯蔵庫:19世紀後半に鉄道が建設される迄運河は輸送の大動脈だった。アメリカやヨーロッパから輸入された穀類は運河を使ってグラスゴーへ供給された。この大きな建物は当初穀類の貯蔵庫だったが後にウイスキーの貯蔵庫として使用された。現在はマンションに生まれ変わっている。

オウヘントッシャン蒸溜所の蒸溜室:このモルト蒸溜所は今でもローランドの伝統である3回蒸溜法で蒸溜を行っている。右から初溜釜、中溜釜、再溜釜で、軽くマイルドでデリケートな風味のモルトが作られている。

史実として確認されているところではローランドの蒸溜は18世紀から始まっっている。グラスゴーで最も古い蒸溜所は1770年建設のダンダスヒル蒸溜所で、1800年代中頃には市内に18の蒸溜所が存在した(B. Taunsend. 1998年)。

当時ローランドの蒸溜所はモルトだけを原料とするモルト蒸溜所と、モルトに発芽していない穀類を加えて仕込む「グレーン・ウイスキー」蒸溜所が混在していた。尤も19世紀中頃以降に連続式蒸溜機が普及するまでは「グレーン・ウイスキー」といってもPotで蒸留されていて現在のモルトとグレーンという概念は存在しなかった。この「グレーン」を蒸溜していた蒸溜所は大規模化・低コスト化を計り、19世紀中頃からは連続蒸溜機を導入、現在のグレーン・ディスティラリーへの道を進んで行った。

一方モルト蒸溜所はどうなったか。多くあった蒸溜所のうち現在でも操業しているのはオウヘントッシャン(Auhentoshan)蒸溜所だけである。この衰退の理由は未だ良く研究されていない。 考えられる原因として、19世紀中頃からグラスゴーは大発展するがその時に市街化が進み市内は蒸溜所には不適になったことと、やはり主因はローランドウイスキーに対する品質の評価が高くなかったことだろう。19世紀後半から始まったブレンデッド・ウイスキー用にブレンダー達は“香りが高く伸びが効く"ハイランド・モルトを求めたが、ローランド・モルトにたいする需要は低かった。

当時モルト・ウイスキーの品質がどのようにして決るか全く分かっておらず、品質は立地や水で決ると考えられていたので、“ハイランド以外では良いモルトは出来ない"との考え方が支配的だった。実はローランドにもハイランドに匹敵する優れた品質の蒸溜所も存在したのである。ローズバンクやブラッドノッホのモルトは素晴らしいブケーを持っているのだが、三回蒸溜によるボーディの繊細さはブレンド用には“伸びが効かない"と敬遠されたのかも知れない。現在の技術的知見を動員すればローランドでもハイランドと同様の品質は実現可能と思われる。

ブレンダー、ボトリングと通商

バランタイン社キルマリッド工場のブレンド部門:キルマリッド工場はブレンド・瓶詰工場として最大規模の1つ。ブレンドに使われる種々の原酒の樽はこのように並べられ、全ての樽の品質がチェックされたのち一斉に払い出されてブレンドされる。

グラスゴーが“ブレンデッドウイスキーの首都"と呼ばれるようになったのは、グラスゴーに多くのブレンダー、ブレンディング会社が誕生し本拠を構えたこと、製品製造のためのボトリング工場が集中し大量の製品がグラスゴー港から積み出されたことによる。グラスゴーから生まれたブランドには“オールド・パー、ブラック・アンド・ホワイト、ホワイト・ホース、J&B、ティーチャーズ、近郊キルマノックのジョニー・ウォーカー、生まれはエジンバラだが19世紀後半にはグラスゴーに本拠を移したバランタイン"などがある。

スコッチ・ウイスキーにも近年厳しい合理化の波が押し寄せ、多くを数えたグラスゴーとその周辺の蒸溜所も現在では4ヶ所を残すのみになった。ブレンドと瓶詰生産設備も多くが統廃合されて減少したが、今でもスコッチの有力銘柄、バランタイン、ティーチャーズ、ジョニー・ウォーカー、カティサーク、シバス・リーガル、デュワーズ、グランツ等々はグラスゴーとすぐ近郊で生産されていて、グラスゴーの“ブレンデッド・ウイスキーの首都"の地位は揺るぎがない。