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稲富博士のスコッチノート

第9章 スコットランド国家の成立:AlbaからArbroath宣言まで

スコットランド人はイングランドが嫌いである。先日のWorld Cupでイングランドがドイツに負けた直後にエジンバラ在住の知人から、"イングランドが負けてスコットランドは大喜び。でもこの心境は日本では理解出来ないでしょうね"とメールがあった。今回はウイスキーの話から少し離れるが、9世紀から14世紀にかけてのスコットランド国家成立の過程と、その中で特にイングランドとの宿命的な葛藤を通してスコットランド人の精神構造に迫ってみたい。

Alba

Aberlemnoの石版:8世紀頃とおもわれるこの十字架にはPictの紋様がみられ、当時Pictへもキリスト教が浸透していた事が分かる。

Albaとは9世紀に西方のArgyle地方を支配していたScott族のDalriadaの国王Kenneth Macalpineが、ハイランドのPict族を併合して成立した初期スコットランド王国のことである。それまで数百年に亘り紛争をくりかえしていた彼らが統一への一歩を踏み出した背景には、それまでの戦争と平和、混血、交易、文化等の交流等で相当に相互理解を深めていた事や聖コロンバによって布教されたキリスト教がDalriadaからPictにも広がって両部族の共通基盤となっていたことが上げられる。

しかしながら、統合の直接原因となったのは外敵、特に8世紀から始まった世界最強の殺戮異教徒集団Vikingの来襲であった。Vikingは Shetland、Orkney、Hebrides等の島々、本土の西北部 Dalriadaの支配地域へも進出、略奪と定住をくりかえした。Albaの国王Kennethは首都を西方のDunaddからScone(Perth) に移したが、その理由はDunaddが拡大した王国の統治には適さなくなったこともあったが、なによりVikingから逃れるという目的があった。一時ノルウエ-領だったViking支配地域がスコットランドに返還されたのは1266年で、Viking支配は約500年続いたことになる。

イングランドとの戦い

(1)王位継承をめぐる混乱

6-14世紀スコットランドの歴史地図

運命の石(Stone of Destiny)とも言われる。これはSconeに置かれているレプリカで本物はEdinburgh城にある。9-13世紀の間歴代スコットランド王の即位式に使われたが1296年にEdward Iによってロンドンへ持ち去られ、返還されたのは1996年であった。

スコットランドの歴史は1296から始まったイングランドとの独立戦争抜きには語れないが、スコットランドの悲劇はその少し前の1286年、当時の王 Alexander IIIの死去に始まる。後継者の二人の王子は若くして死亡していたので、ノルウエーにいた孫娘、当時3歳のMargaretが王位を継承することになったが、彼女はノルウエ-からスコットランドに向う途中Orkney島で死去、明確な継承者なしという空白が生じた。王位を主張するもの多く、このままでは内戦不可避の状況でスコットランドが仲裁を依頼したのは皮肉にもMargaretの曽叔父にあたるイングランドのEdward Iであった。

Edward Iは、スコットランドを含む全ブリテンの王位に自分の神権を信じていたし、スコットランドとイングランドの宿敵フランスとの同盟が気掛かり、イングランド-スコットランドの国境争いは未決着、という状況の中で事実上の決定権を握ることになった。王は自分をスコットランドの大君主として認め忠誠を誓うという条件でJohn Balliolをスコットランド国王に指名。しかしながら、このBalliolやスコットランド議会もEdward Iによる圧政に耐えられず1296年には忠誠を撤回し、スコットランドに攻め寄せたイングランドとの戦いになった。スコットランド軍は大敗、王と貴族は捕縛、スコットランド王権の象徴ともいうべき“スクーンの石"はロンドンに持ち帰られるという屈辱を味わうことになる。

(2)Wallace

Old Stirling Bridge:この石造りの橋は15世紀に建設されたもの。Wallaceが1297年にEdward Iのイングランド軍と戦ったStirling Bridgeは木造で、場所はここからやや上流にあったと考えられている。

しばらくショックで衰えていたスコットランド人の抵抗も、イングランドによる過酷な徴税、これもイングランドの対フランス戦争のためだったが、に反発、いたるところで抵抗運動が起こるようになった。この抵抗運動の先頭に立ったのが映画「Brave Heart」の主人公、William Wallaceで、1297年Stirling Bridgeの戦いで、彼の率いる“さながらボロを纏った敗残兵の群れ"のようなスコットランド軍が圧倒的に優勢なイングランド軍に完勝したのである。しかしながら、Wallaceは1305年、複雑な政治情勢と下級貴族出身のWallaceの台頭を快く思わないグループによって裏切られ、反逆者としてロンドンで処刑される。Wallaceのスコットランド独立への志はならなかったが、彼は“スコットランド・ナショナリズムのチャンピオン"として、又彼のコンセプトの“英国から独立したスコットランド"はその後も生き続ける事になる。

(3)Robert “The Bruce"

Robert “The Bruce":Stirling城から東方を睥睨するBruce像。1314年6月近くのBannockburnで圧倒的に優勢なイングランド軍に壊滅的打撃をあたえ、スコットランド独立の礎をつくった。

Wallaceの死んだ翌年の1306年に自らスコットランドの王位に就いたのがRobert “The Bruce"である。Bruceの即位はライバルのComynを殺害してのことで、彼は即位してすぐイングランドとComyn一族の追討から逃れる為にハイランド地方を逃げ回る事になる。以後数年、Bruceは巧みなゲリラ戦を展開しながらスコットランドを平定していった。

1313年にBruceがスコットランドの全貴族に対して出した「自分に忠誠を誓うか、さもなくば土地を没収する」との最後通告と「夏までにイングランドに救出されなければStirling城を明渡す」との駐留司令官の約束は時のイングランド王Edward IIに受入れ不可能であった。1314年6月、Edward II率いる約1万9千人のイングランド軍と、Bruceの6千500人のスコットランド軍がStirling郊外のBannockburnで激突。地勢を利用したBruce軍の巧みな戦術で、数では完全に劣勢のスコットランド軍がイングランド軍に壊滅的打撃を与え、イングランド軍は敗走したのである。 Bannockburnはスコットランド独立の決定戦となったのである。

(4)Arbroath宣言

Stirling城:スコットランドの中でも最も壮麗な城といわれる。13-14世紀のスコットランドとイングランドの壮絶な戦いを真近で見てきた。

戦に負けたイングランドは政治戦に出る。1319年にローマ教皇John XXIIに対してイングランドは、「スコットランドは謀反者であり独立を認めるべきでない」と訴えた。教皇は、スコットランドの4人の司教にこの訴えに対するスコットランド側の答弁を要求、ここにかの有名な"Arbroath宣言"が書かれたのである。時に1320年4月6日、ところはArbroath Abbey(修道院)、起草は修道院長のBernard de Lintonであった。

“スコットランド独立宣言(Declaration of Independence)"とも言われる教皇宛のこの宣言書は格調の高さ、独立への明快な主張で最も良く知られてたものである。スコットランドの人の歴史、St. Andrewの庇護、イングランドEdward Iの凶悪ぶり、Bruceの王位継承がスコットランドに人々に救いをもたらした事を訴え、有名な次のフレーズに続く。「我々の自由を守らないなら Bruceをも敵として排除する、我々が戦うのは栄光や富や名誉の為ではなく、唯一自由のためでありこの為には死しても降伏する事はない」。ラテン語でかかれたこの書にはスコットランドの4人の伯爵、31人の男爵の印章が押されている。

Arbroath宣言は認めらたが、これでスコットランドの独立と自由が担保された訳ではない。その後も動乱はまだ数百年続くが、この宣言には後に国民詩人Robert Burnsが「ウイスキーと自由は共に進む」と詠んだスコットランド魂の原点を見る思いがする。