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稲富博士のスコッチノート

第6章 スコットランド人の起源

スコッチウイスキーを創出し世界No.1のウイスキー産業に発展させたのはスコットランド人である。彼らはケルト*の末裔と言われているが、長い歴史の中でケルト系の民族を中心として、多くの民族が複雑な形で混交して現在のスコットランド人が出来上がっていった。今回は彼らの生い立ちである。

初期の居住者達

Ring of Brodgar ブローガ-の環状石柱(オークニー島)2500年前のスコットランド先住民が建てたもの。祭儀や天体観測に使われた

最後の氷河期が終わってからも地球上の大量の水はまだ氷となって閉じ込められており、紀元前6000年頃までは現在のブリテン島はヨーロッパと地続きだった。その存在が実証できる最初の人類がスコットランドにやってきたのはこの頃で、ヨーロッパで狩猟・採取で生きていた旧石器時代人が徒歩でやって来た。氷河が溶けてブリテン島が島となってからも人々の移住は続き、紀元前3000年頃の新石器時代には農業と定住化が始まった。この時代の遺跡を最も良く残しているのはスコットランド北方のオークニー島で、第4章「大麦」で紹介したSkara Braeの遺跡や、やや時代は下がるが紀元前2500年頃のMaes Howeの古墳、Brodgarの環状石柱があり、当時のコミュニティーがヒエラルキー構造を持った相当大規模化なものであった事や又優れた技術を備えていた事が分かる。

ケルト人

ケルト人はインド・ヨーロッパ言語を話す民族で、紀元前8世紀頃から東はドナウ川から西はフランスの大西洋岸まで主として中部ヨーロッパに大きな勢力を張ってきた。彼らはヨーロッパで最初に鉄器を造り、ギリシャ・ローマ文化と異なる独自の文化を持っていた。紀元前6世紀頃には多くのケルト人がブリテン島やアイルランドに移住した。ケルトは紀元前400年頃にはローマも脅かす存在だったが、 その後ゲルマンやローマによって西方へ追いやられている。ケルトには多くの部族があり、スコットランドに居住したのはスコット人、ピクト人、ブリトン人であった。

ピクト人

ピクト人の石柱(Aberlemno) 7世紀。へび、連結した円盤、Z型のロッド、鏡は典型的なピクトのシンボルである

ピクトの紋様(シンボル) Z字型のロッドは折れた槍で、死か武勇を表す

ピクト人は古くからスコットランドのハイランド地方を支配していた強大な部族だったが、その実態は良く分かっていない。ケルト語を話していた事や何人かの王の名前は分かっているが、その他の記録や遺跡が少なく、“謎のピクト人"(Mysterious Picts)と言われている。彼らの起源、言語、社会等に関しては今でも論争が絶えない。歴史に登場するのは1世紀で、彼らと戦ったローマの軍人が Picti(刺青したやつ)と呼んだのが名前の由来。8世紀にはスコットに併合されて歴史から姿を消してしまったが、彼らの残した多くの石碑は有名である。それらに見られる独特で謎めいた紋様は彼らの神秘性を際立たせている。

ブリトン人

9世紀スコットランドにおける各部族の配置。 ヴァイキングのノース族、ハイランド地方のピクト族、中央西部はスコット族、西南部はブルトン族、南部にはアングル族がいた

紀元前数世紀にヨーロッパからブリテン島に渡ってきたケルト人で、彼らは英国本土の南部から西部にかけて住んでいた。スコットランドでは今のエジンバラからグラスゴーを結ぶ中央低地、グラスゴーの西南方の地方を支配し、彼らのストラスクライド王国の拠点はバランタイン社のダンバートン蒸留所のすぐ前、クライド川の川中のダンバートン城だった。一時はエジンバラにも砦を築いていた。しかしながらスコットランドのブリトン人は9世紀頃からアルバ王国 (Alba=スコット族をピクト族が併合して出来た王国)に吸収されて行った。

スコット人

アイオナの修道院。スコットランド西岸Mull島の西1km先にあるアイオナ島の教会。最初の僧院は563ADにアイルランドから布教に来た聖コロンバが建て、ケルトへのキリスト教布教の拠点となった

アイオナ修道院のCeltic Cross。十字架の交わる所の円形と刻まれたケルトの紋様がキリスト教とケルト文化の融合を表している

スコットランド(Scotland)の名前は“スコット人の国"に由来する。この国は“ダルリアーダ(Dalriada)王国"で、通説では、5世紀頃にスコットランド西海岸のアーガイル地方にやってきた北アイルランドのダルリアーダ王国の王子Fergas Morが建設した、となっている。グラスゴーの北西、ロッホ・ファイン近くのダナッドの岩山がスコット族の本拠地だった。北アイルランドとスコットランド西岸の関係は深い。使われていたケルト語が同類、多くの伝承や叙事詩が両地域にまたがる、スコットランドへのキリスト教の布教がアイルランドからなされた等である。ウイスキーの蒸留技術も聖パトリックがアイルランドからもたらしたとされている。

その他の渡来人達

先住民やケルト人以外にもスコットランドには強力な種族がやってきた。一世紀にはローマ軍が進撃、一時はクライド河を越えて北進した。ローマ軍は彼らがカレドニア人と呼んだケルトの部族と戦い勝利を収めていったが、相当手を焼いたらしく、支配地域の防御の為に幾つかの長城まで造ったほどである。ローマ軍は 2世紀中葉にはスコットランドから撤収したが、彼らは歴史的な記述を残し、交易、キリスト教などの影響も非常に大きかった。8世紀には北方からノース人のバイキングがやってきてスコットランド西部の島々を支配した。Laphroaig蒸留所のあるIslay島も13世紀まではノルウェー領だった。最後に9 世紀スコットランドにとって最大の難敵だったのは南方から侵入してきたアングロ-サクソンだった。皮肉なことに、独立心が強く、団結を好まず、相互の抗争に明け暮れていたケルト部族がスコットランド統一国家への動きを早めたのはアングロ-サクソン、すなわち現在のイングランド人の外圧であった。

スコッチウイスキーはケルトの酒と言われるが、スコッチだけでなく世界の5大ウイスキー(スコッチ、アイリッシュ、カナディアン、バーボン/テネシー、日本)の内日本以外の全てのウイスキーはアイルランドも含むケルトの手によっている。日本のウイスキーもスコットランドの流れを汲んでいるので、「ウイスキーはケルト文化の産物」と言ってよい。ローマ、バイキング、アングロ-サクソン等の列強に飲み込まれそうになりながらも、自分達独自のアイデンティティを守ってきたケルト魂がスコッチウイスキーの香の奥に感じられる気がしている。

*Celtはケルトと発音する。例外はグラスゴーの有名なフットボールチームのCelticsで、これはセルティックス